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日記・コラム・つぶやき

2019年8月16日 (金)

崎陽軒のシウマイを注文した

台風一過の曇り・・・じゃなくて、これを書いている時間は、まだ台風10号の強風圏内にすっぽり収まっていました。
今回も幸いなことに風害・水害とも免れてホッとしています。
ホッとしていられないであろうと思うのが、N国党首立花孝志代表とマツコ・デラックス氏のバトルか(苦笑)。
表面的な言動はチャラくて軽いと見せかけながら、実は深慮遠謀を秘めた策士か、と思わないでもなかった立花孝志氏。
しかし、マツコ・デラックス氏の毒舌に過激に反応している経緯を見ると、どうやら買い被りだったようです。
まるで中学生のような反応といえば、むしろ中学生に失礼になるような騒動には、今回N国党に投票した有権者も失笑か後悔をしているのではないでしょうか。
マツコ・デラックス氏のほうも、毒舌を売りにしている以上その毒は相手にはもちろん、自分にも毒として返ってくることは十分に承知しているだろうし、仮に番組スポンサーに被害が及ぶとしても、容易に白旗を上げることはしないでしょうね。
立花孝志氏の呼びかけによる、崎陽軒商品の不買運動がどれだけの効果を呼ぶことになるのか分かりませんが、不買運動呼びかけへの有名人たちからの反発もそこそこあるようです。
かくいう私も外野の野次馬というわけではないですが、崎陽軒のシウマイなるものがどんなものか興味をそそられ、昨夜通販で注文してしまいました。
今度の日曜日に届くそうですが、口に合えばまた買うかも(笑)。

2019年4月24日 (水)

そして遠くて近い国パラオへ 最終

 食事を終わってホテルに戻ると、Tさんが10月のパラオ行で見つけてくださった、残る2組の家族と会えるよう、M君に頼んで電話連絡を取ってくれます。しかし、留守だったり電話に出た相手の要領が得なかったりで、なかなか連絡が付かないまま時間だけが過ぎていきます。
 この時点で、私としては母との接点がはっきりしていた花子さんの家族に会えただけで満足していたし、何よりウエキ氏から母たちの生活の一端が、間接的ながらも知れたことが何よりの収穫だったので、それでもう十分との気持ちでした。しかし消極的な私に代わってTさんはこのまま諦めるのはもったいないと、ぐいぐい背中を押してくれるのです。
 すっかり暗くなった18時前、ようやく片方の家族と連絡が付きました。写真では草原に一人ぽつんと立つ男性が写っているだけで、顔もはっきりわからないので、10月にTさんに写真を託した時もその縁者を探すのは無理だろうと思っていたのですが、こちらに来て写真を見せると案外すぐに誰かというのが分かったそうです。男性はすでに亡くなっていましたが、彼の姪のレイチェル・テルコ・ベチェスラークさんがコロールで健在だったのです。
 遅い時間なので押し掛けるのもどうかと思ったのですが、先方がウエルカムというので、急いでタクシーでその方の家を訪問。リビングでテルコさんとひと時の歓談を持つ事が出来ました。

 ホテルに戻り、残る一組の家族に再び電話攻勢。あとで思うに、ひょっとしてTさんが私に一番合わせたかったのがこの家族だったのかもしれません。
 少し微笑んでいるようにも見えるワンピース姿の少女が写った写真。母との接点は分かりません。でもパラオでこの写真を見せたら、誰もが知っているという有名人の少女時代のものでした。私は今回の一連の流れで知ったばかりでしたが、中島敦という作家が戦前のパラオに一時期滞在した時知り合い、短編「マリヤン」のモデルとしたマリア・ギボンさんだというのです。
 中島敦が滞在した時期とその時のマリア・ギボンさんの年齢、母の年齢を重ね合わせると、ひょっとして母との接点というより、写真家の叔父のほうに接点があって写真を撮っていたものを母が譲り受けていた、とみるのが正解のように今は思えるのですが。
 21時半を過ぎたころ、マリアさんの娘でパラオで2人しかいないという女大酋長グロリア・ギボン・サリーさんとようやく連絡が付きました。酋長という言葉からは一般的に未開の民族の男性権力者というイメージがあると思うのですが、母系社会のパラオでは尊敬を集める王族階級の女性という意味合いがあるらしく、現にグロリア・サリーさんはパラオでは「クイーン」とも呼ばれる人物だそうです。
 会いに行く手はずで家までの道順を聞いていると、ホテルまで迎えを寄越すとのこと。外に出てしばらく待っていると、四駆の大きな車が入ってきて、運転手兼秘書?の女性とともに降りてきたのが当のグロリア・サリーさんでした。夜の遅い時間に向こうから出向いてくれたことにまず感謝。Tさんとの再会のあいさつの後、私が紹介され、ロビーで写真を見てもらいながら歓談。
 パラオ人の写真で、まだ所在が分からないものについて、何か手掛かりをご存知ないかと尋ねてみると、一人については意外にもすぐに、この人はKiyarii Delutaochさん 子どものCarl Delutaochさんが博物館に至る道のすぐ近くに住んでいる、とすらすらと答えてくれました。もう一人については、多分この人で間違いないと名前は教えてもらえましたが、消息まではご存知ないようです。話しぶりから何か曰くありそうな雰囲気を感じて、それ以上突っ込んで聞くことはできません。1時間ほども話していたでしょうか、名残惜しく別れ帰って行かれました。

 今回のパラオへの旅で期待していた事は100%、いや200%満たされた気分でした。もっと時間と経済的余裕ががあれば、母の夫、兄たちの父親が戦死したペリリュー島にも行きたかったし、最終日の最後に判明した人物の家族とも会う事が出来たかもしれません。しかし、それは現時点では果たせぬこと。写真に写る日本人の手掛かりはまだ誰一人ありません。
 帰国に向けて荷物をまとめ、しばしの仮眠をとることにしました。
 ふと目が覚めると日付は1月10日。出発時間と決めていた午前1時半になっています。慌てて部屋を出るとTさんたちはすでにロビーで待っていて、予約してあるタクシーも到着していました。3人とも私を空港まで見送りに来てくださるとのこと。
 外は雨です。タクシーで一路コロール空港へ。
 中国や韓国からの団体さんでいっぱいの受付カウンターを横目に、スムーズに手続きを終え、Tさん、Yさん、M君、それに初日からずっと世話になったタクシー運転手のおじさん(ごめん、名前をしっかり覚えてなかった)の見送りに手を振って、搭乗ゲートへ。
 4時10分の予定をやや遅れて離陸。予定通り9時仁川到着。空港内のフードコートで昼食をとり、13時10分仁川出発。15時無事関空に到着。何事もなく手続きを終え入国。南海電車、JR大和路快速、JRみやこ路快速を乗り継いで、18時前に帰宅。
 こうして私の5泊6日のパラオの旅は終わりました。

 かつて多くの日本人移民が暮らし、やがて戦場となった日本から南に約3000kmの小さな島国パラオは、私にとって遠くて近い国です。日本が統治した時代を知る人はどんどん減っています。かつて日本人が建てた家屋はほとんど残っていません。パラオ語とともに公用語だった日本語も今や英語に変わっています。
 しかし、かつての公用語で今の日本では死語になっている言葉が、パラオ語として今も使われています。例えば日本ではブラジャーと言っている女性の下着が、パラオではチチバンドとして通じるのだそうです。大正生まれの母が使っていた言葉です。
 パラオでは現在外国人が単独で土地を取得したり商売することは禁じられています。コロールでは中国資本がどんどん入り、99年租借で土地を得てパラオの富裕層と共同でホテルやレストラン経営を行い、そのあおりで賃貸料が高騰して中小規模の日本人経営者は苦戦しているそうです。旅行客も中華系や韓国人の方が日本人よりも多いそうです。日本人旅行客が減ったことで日本からの直行便は今はもうありません。
 しかし、今もパラオの人たちにとって日本は特別な国、日本人は敬愛を持って迎えられる存在のようです。日本人ももう少しパラオに目を向けてもいいのではないでしょうか。そしてTさんたちが行っている、バラマキではなく彼らの自立のための地道な支援活動が大きな実を結び、この良好な関係がいつまでも続いてほしいと願うばかりです。

 最後に。
 新聞記事にしてくださったことで今回の一連のきっかけを作って頂き、さらに多くの貴重な情報を教えて頂いた京都新聞南部支社長の大橋様。
 ベラウ国立博物館に写真を寄贈する橋渡しをしていただいた台湾のパラオ民俗研究者陳様と京都大学職員内堀様。
 パラオでの関係者探しに尽力頂き、旅の手配から現地で背中を押し続けるなど何から何までお世話になったNPO法人愛未来の理事長竹下様。揺れ動く気持ちに優しく寄り添って下さった山崎様。通訳を引き受けて遠い昔の話に付き合ってくれた佐賀大学の松本君。
 旅の中で知り合いお世話になったたくさんの方たち。
 そして、一庶民のファミリー・ヒストリーの長い駄文に付き合っていただいた皆さんに感謝。ありがとうございました。

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テルコさんの家にお邪魔して
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グロリア・サリーさんと記念の1枚

2019年4月23日 (火)

そして遠くて近い国パラオへ 8

 1月9日。この日が実質的にパラオで過ごす最終日になります。ここまでずっと上天気だったのが前日の夜から下り坂で朝になると雨。幸い活動を始める頃になると小雨に変わりやがてそれも止みましたが。
 昨夜のうちに花子さんの親族にアポを取って、この日の10時に会う約束になりました。指定された繁華街の中心に建つパレイシアホテルに先に着いて待つことしばし。現れたのは初日にスーパーで会った孫夫婦に女性がもう一人。
 花子さん(パラオ名エビルトリック・スマング)の長女ラファエラさんの次男で、白人の血が入っていると思われる顔立ちのグレン・シードさん。その奥さんが日本人女性の越子さん。初めてお会いした女性はうっかり名前を聞き忘れたか聞き漏らしてしまって手帳にメモ書きがありませんが、この方が花子さんの四女イサベラさんの娘さん。
 花子さんは前述したように戦後グアムで療養中29歳で亡くなっていますが、その時イサベラさんは5歳。母親の顔は覚えているが写真は持っていなくて、昨年10月にTさんがパラオに来たとき渡してもらった写真を見て、自分の若いころに似ているととても喜んでくださったそうです。しかし、10月にTさんが会ったとき病気から回復途上で退院したばかりだったというイサベラさんは、その後再び悪化して12月に亡くなられたとの事。亡くなる前に写真を渡す事が出来て良かった。
 歓談の中で知ったことですが、花子さんの母親メリーさんも女酋長だったそうで、ドイツ人と結婚しましたが第1次世界大戦でドイツが敗北すると、夫はメリーさんを置いて帰国してしまいます。花子さんがこのドイツ人との間の子どもだったかどうか分かりません。ここにも戦争に翻弄された人たちの歴史がありました。
 花子さんの子どもたちの時代になって、ファミリーが台湾資本との共同経営に乗り出したのが、面会に使っているこのホテルとのことです。ホテルの地階の一角に、夫の去った後の海を見続けるメリーの姿を描いた壁画があるとの事で、案内してもらいました。

 花子さんの孫ファミリーに会った後、午前中にもう一か所、大統領のオフィスを表敬訪問する手はずになっていました。タクシーを使って約束の時間の30分ほど前に到着。大統領との会談ということで頼んでおいた本職の通訳の女性も5分前には合流しましたが、実際に大統領の待つ部屋に通されたのはそれからさらに20分は過ぎていたと思います。
 今回のパラオ訪問の一件を写真を見てもらいながらかいつまんで説明。博物館に写真のオリジナルを寄贈した事については感謝の言葉をかけられましたが、時間が押していたのか、話をしたのは20分そこそこ。最後に記念写真を撮って、「ハイ次の組」といった印象でした。
 こういう経験が初めての私には新鮮で貴重な体験でしたが、Tさんにとっては不満が残ることになってしまいました。というのも、支援活動を通じて大統領とは旧知の仲のTさんには、この会談の席で、支援活動を続けていくうえでどうしても頼みたい事があったのに、それを言い出す前に私の件だけで話を打ち切られてしまったのです。私にとっても少し後味の悪い結末でした。ホテルに戻るタクシーの中は、Tさんの心情を思いみんな無口の重苦しい雰囲気です。
 しかし、それも昼を過ぎたころまでの事。これまで様々な経験を乗り越えてきたバイタリティー溢れるTさんは、いつまでも後ろを見いていません。15時にTさんの今回の目的である、農業支援の打ち合わせでエサール州の知事と面会があり、同時にM君の3か月にわたる農業研修とホームスティの最終確認とお願いなど。このエサール州がTさんたちの農業支援に応じて自立活動に積極的なのだそうです。
 私も部外者ながら同席していると、話が一段落したところで私の件がTさんから紹介され、話の中で母たち家族が商店をやっていた事に触れると、州知事の口から「ショウバイニン」という言葉が飛び出しびっくり。日本の統治時代の25年ほどの間に3000語近い日本語がパラオ語として定着したという事だけは、事前に調べて知っていましたが、「ショウバイニン」もその一つだったとはTさんも初めて知った様子。
 
 この日の夕食は私のリクエストで、再びカープレストランですることになりました。店に着いてみると閉まっています。定休日を調べていなかったので、ひょっとして・・・と思っていたら、午後の開店前に着いただけでした。前とは違う料理をいくつか注文しましたが、やはりボリュームがすごい。この時はビールも頼み、酒に弱い私は1杯で出来上がってしまい、明日早朝には私一人帰国することになるので、軽口のつもりで「皆さんとの最後の晩餐」と言ったら3人から叱られてしまいました。
 
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真ん中が花子さんの四女イサベラさんの娘さん 後ろが長女ラファエラさんの息子グレンさん
 
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パラオ大統領と記念撮影
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エサール州知事と記念撮影

2019年4月22日 (月)

そして遠くて近い国パラオへ 7

 1月8日。
 パラオに着いてからここまで、ほとんどの時間を私に付き合ってくださっていたTさんやM君にも、こちらでするべき事は当然あり、この日の午前中は先方とアポをとったり打合わせの電話に取り掛かっておられます。それとなく聞いていると、日本とパラオでは時間や約束といった概念が少しずれているようです。日本では約束や時間は優先して守るべき基本ですが、どうもこちらでは時間がゆっくり流れている様子。約束も書面ではっきりと書いておかない限り、日常生活の時間の流れの中で次第に優先順位が失われていくようです。どちらが良い悪いではなく、書面で交わした約束以外はおおらかに捉えておくのがこちらの流儀なのでしょう。

 昼近くになって昼食の調達にYANO惣菜店に行くことになりました。私だけその手前で降してもらい、昨日ウエキ氏から聞いた高橋商店のあったあたりの写真を撮ることに。
 目印となるギフトショップ「ルー」は、実はこちらに着いた当日に一度訪れていた店でした。日本を発つ数日前にメールを頂いていたパラオ諸島戦史研究会のYさんから、パラオで生活している二人の日本人女性を紹介され、戦前の日本人の生活に関心がある人たちなので、向うに行ったらぜひ会ってみてくださいと勧められていたのです。その一人が「ルー」で仕事をしているTさんでした。店を訪れた際母の記事が載った新聞のコピーや写真を見せ、髙橋商店の売り物の一つにかき氷があったように、この店でもかき氷をやっていたので、それを注文して食べたのです。75年以上の時を隔てて同じ場所でのかき氷。これも何かの縁でしょうか。
 もう一人の女性とも昨日お会いしていて、その方は日本地雷処理を支援する会(JMAS)に勤務するOさん。彼女からは当時の日本人社会を知る年代の方として、ウエキ氏とともにマサオ・キクチ氏のことも教えてもらいました。残念ながら滞在中の時間の制約もありお会いするに至りませんでしたが。Oさんは前日まで日本にいて今日パラオに戻ってきたところだったそうで、このタイミングも何かしらの縁を感じたものです。
 Yさんから話を聞いたときは中高年の女性だろうと想像していたのですが、お二人とも20代から30代と思しきとてもチャーミングな方たちでした。

 幹線道路沿いにある店の外観を何枚か撮り、YANOでTさんたちと合流。前回とは違う惣菜を買い込んでホテルに戻りました。タピオカの団子のようなものは少し甘めでしたが、惣菜はどれもおいしく口に合わないものはありません。レストランでの食事も含め、地元食材や地元での味付けに違和感はありませんでした。
 この日は午後からアラカベサン島にある日本大使館を訪問することになっています。食事を終えて少し休憩の後、タクシーを呼んでもらい大使館へ。タクシーは初日からずっと同じ運転手にお願いしていて、小柄で気さくなそのおじさんはTさんをママさん、私をパパさんと呼びます。家族と思っていたのでしょうか。
 
 大使館では専門調査官という肩書のYさんが応対され、ここでも写真のことなどを話しました。大使館などは旅行中に事故など被害が生じたときに駆け込むところ、そんな認識しかないので表敬訪問という体験は新鮮でした。日本大使館はパラオで一番格上とされるホテルの敷地に隣接し、大使館を出るとそのままホテルの敷地内を散策できます。
 パラオパシフィックリゾートホテルには日本人のスタッフが常駐していることもあり、日本人観光客が安心して過ごせると人気があるそうです。また、パラオのホテルで唯一ホテル内の水道が飲料として使えます。ここ以外では水道水を飲むことはできず、ペットボトルの飲料水が提供されます。敷地内に砂浜のビーチがあるのにびっくり。自然のものか人工的に作られたものか知りませんが、すごく贅沢感が漂うホテルでした。宝くじでもあたって豪遊できるなら、次のパラオ旅行は家族とともにこのホテルに1年ほど泊まり、島巡りをし魚釣りをし一番暗い場所で星を観望を・・・。

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大使館玄関前にて
右から大使館員のYさん Tさんと友人のYさん、左端がM君

2019年4月21日 (日)

そして遠くて近い国パラオへ 6

 この旅行記は旅行中に手帳に書いていたメモを元に記憶をたどり照合しながら書いているのですが、昨日アップした記事と撮っていた写真を念のため確認してみて、日にちに錯誤があったことが分かりました。
 手帳にはウエキ氏と会う予定が8日の午後になっていたのですが、写真に自動的に記録される日時と画像番号では、会ったのは同じ日の散歩の後ということになります。実際には翌日会う予定でいたのが、直接ウエキ氏とアポが取れたので当日に急に変更になったというのが事実です。
 昨日アップの記事を一部訂正し、改めてアップし直しています。わずか3か月前のことも既に記憶があやふやになっている。困ったものです。

 ホテルに戻りシャワーを浴びて汗を洗い流し終わると、Tさんからウエキ氏とアポイントが取れたから今から行きましょうと言われました。彼は日本語が堪能だからM君の通訳もいらないということで、Tさんと2人で取り急ぎ出かけることに。
 オフィスに到着するとすでにウエキ氏が待っておられました。今年の誕生日で88歳になるというウエキ氏に、母が戦前パラオに住み、結婚して家庭を持ったこと、戦時中の引揚げの際に持ち帰っていた当時の写真を、この度パラオの国立博物館に寄贈したことなど、かいつまんで話しながら昔の地図のコピーやデジタルスキャンしてプリントしておいた写真を見せると、髙橋商店が写っている写真のところで指が止まり、この店を知っているとのこと。
 当時少年だった彼は、母たちが営んでいたこの店でジャムを塗ったパンを買って食べたというのです。日本人の裕福な家庭の子は毎日のようにここでパンを買っていたが、自分やパラオ人の子どもはそういつも買えるわけではなかったとのこと。そんな話をしてくれた時のウエキ氏は、確かに当時を懐かしむ少年の表情でした。店のあった場所はわかるでしょうかと尋ねると、現在の繁華街の一角にある「ルー」という店のあたりだというのです。
 今と違って当時の中心街は間口の狭い商店などが隙間なく立ち並んでいました。そんな写真を私もパラオに来る前のリサーチで何枚か見ていましたが、そこに髙橋商店は残念ながら写っていませんでした。しかし当時を知る彼がそう話してくれたので、これ以上確かなことはありません。この話を聞いた時には思わず鳥肌が立ちました。
 母から話を聞き、写真もある。しかし当時の母たちを知るパラオの人たちはすでに亡くなっており、その子供や縁者がいるだけ。住んでいたという家も残っていない中、どこか誰かの物語を傍観しているような手ごたえのなさをずっと感じていたのですが、ウエキ氏の口から出た日常の何気ない風景を聞いたことで、やっとこれが自分につながる現実だと思えた瞬間でした。パラオに来て本当に良かったと思えた瞬間でもありました。

 高揚した気分でホテルに戻るともう夕暮れ時。この日の夕食はパラオに拠点を置く旅行会社(今回の旅行もこの会社で手配)の社長で、Tさんが親しくされているSさんのお誘いで、彼の経営する日本料理のレストラン鳥鳥(とりとり)でとることに。Sさん自ら運転する車で直行した店は繁華街の中にありすでに満席状態でしたが、予約席が確保されており、こちらが注文した以外の料理まで次々出てきます。私たち4人とも食事代が心配になってきましたが、いざ会計になった時、ここはすべて社長のSさん持ちとのこと。パラオでしか食べられない食材を使った料理をおなか一杯ご馳走になってしまいました。
 食事中にSさんに伺ったところによると、散歩のときに見た日本建築の屋敷は駐パラオ日本大使の公邸とのでした。納得。アルコールも入っていたので、Sさんは運転されずそのまま店に残り、私たちはお店の従業員さんにホテルまで送ってもらうことに。
 こうして、パラオ滞在2日目は私にとって充実の1日となりました。
 
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復刻版の戦前のコロール市街図を見るウエキ氏
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後ろの壁には大使時代と思われる写真や、昨年受けられた褒章状が額に入って飾られています
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RUR(ルー)ギフトショップ
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ルーに連なる商店街 この辺りの一角に母たちの店、髙橋商店があった

2019年4月20日 (土)

そして遠くて近い国パラオへ 5

 この時はウエキ氏と会えないままホテルに戻ることになったのですが、戻る途中、戦前母たちが暮らしていた家の近くを通るので、海の見えそうなところで車を止めてもらうことにしました。出来れば岸壁のようなところではなく、砂浜のような海面に触れられる海岸がいいのですが、コロール島はサンゴの隆起でできた島なので、砂浜がほとんど無いようです。
 戦前のコロール市街地図(復刻版)とグーグルマップをプリントしたものを見比べると、細い道などが異なっています。戦争で一度荒れたあと、区画整理などが行われたのかもしれません。両地図を見比べるとアイランド・パラダイスリゾートクラブ(IRRC)というホテルが、昔の地図にある家とは少し離れているようですが、海に出るには一番よさそう。
 ホテルの敷地内なのでM君に通訳をお願いし、「戦前に家族がこの近くに住んでいたので懐かしく、少し散策させてほしい」と告げると、責任者らしい中国系の人物が快く応じてくれました。海岸近くまで寄ると砂浜ではありませんが水際まで下りられるようになっていました。同行の3人には待ってもらい水際まで下りて、カバンから小さな封筒を取り出します。中身は14年前の夏、和歌山・串本の海に散骨した時、遺灰を包んでいたガーゼです。普段は仏壇の中に収めていたもので、日本を出るときまだ少し繊維の隙間に灰が残っているのを確かめていました。
 ガーゼをそっと海水に浸し、手を合わせ黙とう。それから水の中の砂粒を少しつまみ取って、ガーゼとともに封筒に収めました。ここへ来られなかった兄に頼まれていたのです。
 待ってもらっていた3人のところに戻り、礼を言おうとした瞬間、急に胸が詰まり涙があふれてきました。急いでハンカチで目と口を押えましたが、嗚咽が止まりません。突然のこの事態に成す術もなくしばらく立ち尽くしてしまいました。病院で母が息を引き取ったときも、葬儀の時も串本で散骨した時も涙ひとつ出ることなく冷静でいられたから、自分は冷たい人間なのかなと思ったぐらいでした。それなのにこんなことになるとは我ながら心底驚いてしまいました。
 ようやく落ち着いたところでTさんたちに、待ってもらったお礼とパニックになったことを詫び、心配そうに遠くで眺めていたホテルの人にも礼を言って、宿泊先のホテルに戻りましたが、戻る車中でも、何かしゃべろうとするとすぐまた涙があふれそうになります。まだまだ気持ちが高ぶっているようでした。
 ホテルの部屋に戻りしばらく休憩しましたが、夕食まで十分に時間があり、母たちが住んでいた家のあたりを探してみたいという思いが高まっていたので、1時間ぐらいで戻りますと告げて一人で散歩に出かけることに。実際地図で見ると先ほど散骨したIRRCまで歩いて往復40分もあれば十分そう。
 南国の午後の強い日差しのもと、旧地図とグーグルマップを見比べながら歩くと、IRRCの手前から家のあたりに続くはずの小道がありません。しかし、少し離れたところに別の小道があったのでそこをずんずん進んでいくと、IRRCの裏手に当たる海岸に出ました。そこには別のこじんまりしたホテルらしい建物がありますが人がいる気配がありません。海岸と反対の崖の方を見ると、木立の隙間から家が見えました。
 もう一度旧地図を見ると、どうも崖の上のその家のあたりが本命のようです。小道を戻り崖の上に通じる道を探しますが、住宅の敷地内を通る道のほか見当たりません。グーグルマップを見返し、マラカル島からアラカベサン島の方に行く分かれ道まで戻り、そこからアラカベサン島側に行く道から分かれてぐるりとアルファベットのCのように円弧を描く道があるので、その道を行くと崖の上の家にいけそう。
 すでに体は汗でベトベトになっていますが、何としても確認しておきたい気持ちが強く、円弧の道をたどっていくと、突然日本風の屋敷のような建物が目に飛び込んできました。見ると日の丸の国旗が掲げられ壁には金色の菊の紋がはめ込まれています。何? でもこれは戦前に建てられた家ではありません。
 道をさらに進むと、先ほど崖下から見えていた家が見つかりました。Cの字を三分の二ほど進んだところです。今は現地の人の家が点在していますが、旧地図では確かにこの辺りが家があった場所に違いありません。やっと見つけたという小さな達成感で足取りも軽く・・・でもなかったけれど、気持ちよく帰り道を急ぐことに。
 
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ホテル敷地内の海岸 左側から海岸に降りられました
ここで最後の散骨
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ようやく気分が落ち着いたところで記念に1枚
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大使公邸
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75年前には、おそらくこの辺りに母たちの家があったはず

2019年4月19日 (金)

そして遠くて近い国パラオへ 4

 滞在1日目の夕食場所に選んだカープレストランは、旅行パンフやネットでもよく知られたパラオの名物レストランです。いわゆる大衆食堂の部類ですが、値段が手ごろなうえ量が他所の店の1.5倍はありそうなボリューム。そしてこの店のオーナーの奥さんが何よりの名物とのこと。年配のご夫婦とも日本人ですが、ご主人は野球の読売ジャイアンツのファンなのに対し、奥さんの方は広島カープのファン。奥さんの主張が通って店の名前をカープにしたそうです。この奥さんがまた気さくでよく喋る。
 このカープレストランのオーナー岸川さんのお父さんが母と同じ佐賀県の出身で、戦前のパラオに出稼ぎに来ており、終戦時のアメリカによる日本人強制退去の際、孤児になっていた知り合いの日系パラオ人の少年を連れて故郷の伊万里に引き上げたそうです。この時の少年については少し詳しく後述します。
 夕食から満腹で戻り、前日ほとんど寝ていないこともあってすぐに就寝・・・ところが2時間ほどで目が覚めてしまい、これ以上寝られそうになくて外を見ると星空! 早速カメラと三脚をもって、ホテルの近くの岸壁に出かけました。この時をはじめコロールに滞在中に撮影した星の写真については、1月のブログでアップしています。

 1月7日。最初の公式訪問先はパラオ国立博物館。
 地元紙・京都新聞に大きく紙面を割いて記事にしていただき、Web紙面でも取り上げてもらったことが、台湾在住のパラオ民俗学研究者の目に留まり、その友人の京都大学事務職員U氏を通じて、これまで見たことのない写真なのでぜひ国立博物館に寄贈されてはどうか、とのお話をいただきました。正直なところその扱いに迷い、いずれは破棄することになるかもしれないと思っていた写真だけに、パラオの博物館で展示保存していただけるなら、それが一番いいかもしれないと兄とも相談。
 最初は郵送するつもりでいたのですが、急遽パラオ旅行がまとまったので直接手渡すことになりました。当初博物館の方では小規模ながら贈呈式を予定し、地元新聞社も来るよう手配するとのことでしたが、そういう事に不慣れで堅苦しいことは苦手なので、出来るだけ簡素に願いたいと伝えていました。
 受付で来訪を告げると、気さくなおじさんという印象のサイモン・アデルバイ氏が応対。ロビー横の喫茶室で寄贈する写真のそれぞれについて確認することに。事前にリストにしてU氏経由で渡してあるので補足的な話をし、屋外に出て記念撮影。そのあと館内の展示物を案内してもらい再び喫茶室に戻ると、今度は少し年配の男性が待っていました。
 アデルバイ氏から副館長のスコット・ヤノ氏と紹介され、再び写真についてのいきさつなどを話しながら歓談。今度も屋外に出て記念撮影も。ヤノ氏が日系なのかどうか名前だけではわかりませんが、日本の姓を名乗るのは日系人だけでなく、日本の植民地時代に、世話になったり親しくしていた日本人の姓を付ける純粋のパラオ人もいたとか。今ではアメリカ的な姓や名前を付けている人も多いようで、これも時代の流れでしょう。もうひとつ。前日昼食を買い求めた惣菜店YANOはヤノ氏の弟が経営しているとのことでした。
 昼を過ぎたころになり、そろそろお邪魔しようとしていたら、副館長の指示で特大のハンバーガーが出され、遠慮なくごちそうになってから退出。
 昼を過ぎ、ドクター・ミノル・ウエキ氏に会いにマラカル島に移動。しかし、事前にアポを取っていなかったのか生憎不在。出直すことになります。
 ミノル・ウエキ氏について私は全く情報を持っていませんでしたが、Tさんの話では前述のカープレストランオーナーのお父さんが、終戦後に連れて帰った日系パラオ人の少年だということです。彼は日本に引き揚げた後、中学校に通い日本の教育を受けます。数年後、帰国が叶いパラオに戻り、さらにアメリカにわたって医学を学び、ふたたびパラオに戻り国立病院で医者として勤務、のちに政治家となり日本へはパラオ大使として3年間赴任経験もある、努力家の秀才という人物。日本との国際交流で貢献大ということで昨年秋の叙勲で旭日重光章を受けられたとのことです。
 そんな人物と一介の民間人に過ぎない私が気安く会えるのかと不審に思いましたが、彼なら少年時代に戦前の日本人社会を知っているので、何か手掛かりの話が聞けるかもしれないと、Tさんの提案で進めていただいていました。これもTさんの顔の広さです。

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パラオ国立博物館 向うに見えるのは天体ドーム?
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喫茶・食堂で写真の確認中 右から2人目が私 真ん中がアデルバイ氏
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博物館の壁に描かれた壁画の前で 左がヤノ氏、右はTさん
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博物館の敷地にあるアバイ
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母の持ち帰った写真にあるアバイ これは戦争で焼失していました。
アバイはパラオの伝統的建築物で集会所として各地にあったようですが、戦争で多数失われ戦後再建されたものも。

2019年4月18日 (木)

そして遠くて近い国パラオへ 3

 1月6日は日曜日。公式訪問の相手先はいずれも休みなので、朝食までしばし仮眠を取り、食後にはこれからどう行動するかTさんたちと打ち合わせ。TさんとYさんは2週間強の滞在のうち、農業支援のため現地の各方面と会合や打ち合わせの予定が詰まっているのですが、私が滞在する1週間弱の間はこちらの予定を優先していただけるとのこと。M君の方はホームスティと研修が1週間先から始まるので、彼も私に付き合って通訳を引き受けてくれることになりました。
 打ち合わせが済んで昼近くになったので、Tさんの案内でコロールの中心街を見学に行くことに。空港のある本島バベルダオブ島からコロール島を貫いて、隣接するアラカベサン島とマラカル島に至る幹線道路沿いのコロール島の真ん中あたりにホテルやスーパーマーケット、土産物店が並び、警察署、郵便局、銀行などの公共施設もあります。
 しかし、パラオ唯一の繁華街とツアーのパンフレットなどには紹介されているものの、感じたままを正直に言えば、日本の地方都市の駅前商店街といった印象。幹線道路が広く、間口の広いお店が間隔を広くとって並んでいるのと、全体に建物が古い印象があって全体としてそう感じたのかもしれません。
 車は間断なく通るのですが信号機は見かけません。横断歩道もなく歩く人もまばら。パラオ人の人口が少ないのと、観光客の目的はほとんどが海なので、ダイビングから戻ってくる夕方からが活気づいてくるのでしょうか。
 一番大きなスーパーマーケットのWCTCに入りぐるりと一回り。棚に並んでいるフルーツや野菜など一部の地元食材以外はほとんどが輸入品。特に目立つのがアメリカの商品で、次に多いのが日本の商品。東南アジアからのものも目につきました。観光資源以外これといった産業がなく、アメリカと日本の経済援助に頼っているのが現状らしく、物価は日本とほとんど変わらないようです。
 かつて日本が入植し先住民に農業を指導したというのも今は昔。敗戦で日本人が引き上げアメリカが信託統治するようになると、経済支援はするが自立のための支援はしない政策をとります。日本の教育を受け農業をしていた人たちも、時とともに老い彼らの子どもの代になると多くは自生しているイモ類を主食に、いつでも手に入るフルール類を食べ、自分達が食べる分だけ漁で魚をとるといった、元の生活スタイルに戻ってしまったようです。あくせく働かなくても食うに困らないし、経済支援を受けているからそこそこのレベルの生活ができるというわけです。
 酋長と呼ばれる昔からの名家の一門、いわゆるエリートでインテリ層である人たちは国の将来を考え、外国資本を呼び込んで提携し観光産業に力を入れ、あるいは自立のため農業振興、養鶏などに取り組んでいて、NPOのTさんの支援活動もそうした流れの中にあるそうです。しかしパラオ人の国民性と、かつての日本のような半強制的な手法は現在では通用しないので、なかなか難しいことのようです。
 もうひとつ、農業支援がはかどらない原因が土地問題にあるとのこと。戦前に日本人によって開墾された土地は土地台帳で管理されていましたが、戦争によって失われ、その後の混乱もあって、土地の所有者が誰なのか今もって争われている場所が多くあり、うかつに支援に入れないのだとか。

 またしても話が逸れてしまいました。
 WCTCを見学後もいくつかの食料品店を見てまわったのですが、その1軒で思わぬ出会いがありました。前年の10月に預けた写真をもって人探しをしてくださったTさんですが、その時見つけてくださっていた3組の家族のうち、パラオ美人花子さんの孫夫婦が買い物に来店していたのにTさんが気づき、その場でご対面。この時は軽いあいさつ程度で済ませたのですが、2日後、もう一度会うことになります。
 さて、歩き疲れてきたのでそろそろ昼食をということでWCTCまで戻り、隣のYANO惣菜店で食料調達。手軽に安価に済ませるときに便利な店と、ネットの観光案内でも紹介されている店です。値段と量を見て納得。せっかくだから現地食を食べたいと言ってタピオカや鶏肉の総菜を買って、ホテルに戻り遅めの昼食にありつきました。
 昼食後はホテルの周囲を散歩したり部屋で休憩したり。
 昼食を安上がりで済ませたので、夕食はTさんのなじみのレストランですることになり、タクシーでマラカル島にあるカープレストランへ。このレストランは旅行前にネットで調べていて私が一度は行きたいと思っていた店でした。ちなみにパラオでは鉄道や公共交通機関はないので、少し距離のある移動はレンタカーを利用するか、事前交渉で運賃を決めるタクシーを利用することになります。
 カープレストランについては次回に。

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コロール郵便局
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空港のあるバベルダオブ島方面
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この先数キロのところで右にカーブすると、日本大使館もあるアラカベサン島、左折するとカープレストランがあるマラカル島
右端の3人が今回同行いただいた方たち

2019年4月16日 (火)

そして遠くて近い国パラオへ 2

 仁川発パラオ行きの出発時刻は22時過ぎ、到着は4時間半後になっています。事前に調べたところ、台北経由、グアム経由ともパラオ・コロール国際空港着は午前2時から4時台になっています。さらに、パラオ発もそれらの時間帯に集中しています。いずれも深夜早朝帯の発着なのは何か理由があるのでしょうか。
 搭乗開始は遅れもなく順調に進みましたが、関空-仁川間就航機に比べ一回り小型の機体です。飛行時間は倍以上長いけれど、乗客数が少ないのでローカル線扱いになるのは仕方ないですね。とはいえ機内はほぼ満席、やはり韓国人が一番多く、時折中国語が聞こえ、白人の姿もちらほら。
 同行のM君と隣り合わせの通路側の席に着きましたが、彼は仮眠を取りますからと窓側の席を譲ってくれました。私の方はといえば座ったまま寝ることができないほうなので、窓側でなければ時間つぶしにとナンプレ本を忍ばせていました。離陸とともに窓外に広がる韓国の夜景を眺めているのは私ぐらいか・・・お上りさん気分です。
 しばらくすると海に出たのでしょう、眼下は真っ暗です。でもすぐにまた九州の街明かりが見えてきました。それもしばらくの間だけでまた真っ暗になりました。ようやく太平洋に出たようです。照明を落とした機内の薄暗がりでナンプレを始めましたが、それにも疲れふと窓の外を見ると平行目線よりも高いところに見慣れた星の並びが見えます。プレアデス星団、和名すばるです。上空大気のフィルターが薄いうえ、光害もないので明るくはっきり見えています。ほかにも見えないか、小さな窓に顔をつけて周囲を見渡すと、アルデバランとヒアデスも。
 星探しに疲れてしばし目を閉じ、ナンプレを少しやり、また窓の外を見る、そんなことを繰り返していると、眼下に明かりが見えてきて、やがて機内アナウンスがあり、ついにパラオに着いたようです。
 コロール空港は国際空港とはいっても国の規模が小さく人口も少ないので、鹿児島の屋久島空港に近いローカル空港という印象です。機外に出ると南国の暑い外気のお出迎え。20歳のころ社員旅行で連れて行ってもらったタイのバンコクを思い出しました。あの時も2月の冬の日本を出発してのことで、機外に出るとムッとするような暑い空気に驚いたものです。
 冷房のあまり効いていないような空港内で、韓国人の団体さんが入国審査を受ける様子を見ながら、厚物の上着から薄手の物に着替えます。機内では気が付きませんでしたが、パラオ人乗客も何人かいたようで、外国人とは別の審査所を通ってさっさと出ていきます。それに引き換え団体さんの方はなかなかはかどりません。トランクもバッグもいちいち開けて念入りにチェックを受けています。
 最後尾に並んでいた私たちの順番になり、タバコと果物を持っていないかと尋ねられ、持っていないと告げながらキャリーケースをカウンターに置いてチャックを開けようとすると、必要ないと身振り手振りで示し行っていいというそぶり。え? ほんとにいいの? そんな表情で無事通過。団体さんのチェックに疲れ雑になっているのかと思ったら、Tさん曰く「中国人や韓国人は禁止されているものを持ち込むことが多いから、念入りに調べられるけれど、日本人は信用されているから」と。そんなところにも戦前からの日本とパラオの結びつきが受け継がれているのかなと、妙に納得しました。あるいは支援活動でたびたびパラオを訪れているTさんの顔パス効果なのかも。
 ようやく空港の外に出ると、予約したホテルから迎えのマイクロバスが待っていました。運転手は旅行社の現地スタッフで、私たちがなかなか出てこないので、乗り遅れたかキャンセルかと心配していたそうです。バベルダオブ島南部にある空港から滞在先コロール島のホテルまで、街灯の少ない舗装の悪い道を40分ほど走って到着。
 ランドマークマリーナホテルではM君と同部屋で、荷物を置くとすぐに私は外に出てみることに。サンゴの島で入り組んだ湾に建つ小さなホテルですが、目の前の岸壁から浮桟橋に降りるとたくさんの小型船が係留されています。スキューバダイビング客に人気のホテルだとか。桟橋からのぞき込むと街灯に照らされた透明度の良い海中に魚が泳いでいるのが見えます。中でも40cmはありそうなサヨリが手の届きそうなところを悠々と泳いでいるのを見ると、釣り好きとしてはムズムズしてきます。
 桟橋を沖の方に移動すると、ホテルの陰に隠れていた異様に明るい星が見えてきました。明けの明星・金星です。日本で見る金星の何倍も明るく輝いています。この時期は月の見えない新月期ですが、満月の下では月明かりだけで新聞が読めた、と母が言っていたのを思い出します。
 とうとうパラオにやってきたと、その時ようやく実感しました。
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ランドマークマリーナホテル。
規模は大きくないが岸壁のすぐそばで、海に出るには便利。
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ホテルからの風景。
日本、パラオ、米国の旗が立っているのは、国際サンゴ礁センター。
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ホテルからの風景。サンゴ礁センターの隣の水族館。

2019年4月15日 (月)

そして遠くて近い国パラオへ 1

 外国語は全く苦手。英語も読み書きともダメなので一人で海外に行った経験がなく、そのうえ国内旅行でも個人で飛行機を利用したことがない。そうした旅行はすべてツアーか社員旅行での経験。こんな消極的な人間なので佐賀県の方からパラを行きを誘われ、合流は韓国の仁川空港で、と聞いた時には正直小さな子供が初めてのお使いに出されるときの気分。
 幸い航空券や現地での宿の手配は、何度も渡航の経験のあるその方のなじみの旅行社でしていただけることになり、自分ではパスポートの取得と旅行保険を掛けることぐらいで済みました。体力に自信がないので荷物はできるだけ少なくコンパクトを心がけ、機内持ち込みサイズのキャリーケースを購入。博物館に寄贈する写真、昔のコロールの地図と現在の衛星写真のプリントなど、旅の目的に必要な資料類。5泊6日になるので必要最小限の着替え類など。せっかく南の島に行くなら南十字星も見たい撮りたいということで、コンパクトなトラベル三脚を新たに購入。
 海外旅行の経験豊富な人から見れば笑ってしまうような些細なことまで、これは空港で機内持ち込みをとがめられないか、それはダメかもと迷ってはネット検索で調べ、持っていくものの取捨選択をしているうちに日が過ぎ、年が明けてしまいました。一方で戦前と現在のパラオについての情報も、抜かりなく本やネットで調べておきます。

 1月5日。空港での出国諸手続きに手間取って飛行機に乗り遅れるようなことがあっては大変と、フライト予定時刻より相当早めに関空に向けて家を出発。今回旅行に誘っていただいた佐賀県の方とは仁川空港で落ち合うことになっているので、そこまでは何としても自力で到着しなくてはならないと、ある種悲壮な覚悟でしたが、案ずるより産むがやすし。何事もなくスムーズに手続きを終え、飛行機の出発まで退屈な数時間を過ごすことになってしまいました。
 乗る予定の飛行機の到着が遅れ、出発も予定より20分ほど遅れましたが、仁川での乗り継ぎにも十分時間があるので焦ることなくフライトを楽しむことに。思えば社員旅行で沖縄に行って以来10年ぶりに飛行機への搭乗です。
 一昨年の夏ごろまでは日本パラオ間にも定期便があったそうですが現在はなく、韓国の航空会社を利用して仁川経由、台湾の航空会社を利用して台北経由、アメリカの航空会社を利用してグアム経由の3択になり、今回は全行程アシアナ航空を利用します。機内アナウンスは基本韓国語ですが、仁川までは日本航路なので日本語でのアナウンスもありこれも安心。でも座席周囲は韓国語が飛び交っています。
 2時間の飛行ののち無事に仁川空港に到着。長い通路をひたすらキャリーを引きながら乗り継ぎカウンターを目指します。幸い同じターミナル内の移動で済んだのですが、それにしても東アジアのハブ空港というだけあって広い。途中、乗り継ぎセキュリティチェックの関門も無事クリア。予定では福岡空港からの便はもう到着しているはず。待合わせの乗り継ぎカウンターに急ぎますが、まだそれらしい人物は見当たりません。
 しばらく椅子に掛けて待っていると、メールのやり取りから写真で見知ったTさんが到着。Tさんの友人のYさん、佐賀大学の学生M君もご一緒。Tさんは佐賀県庁で公務員をされた後、パラオやスリランカに支援活動をする国際交流NPOを立ち上げたという、行動力抜群の女性。Yさんは70代の女性ながら好奇心旺盛で中年過ぎて英語を習得されたとのこと。M君もTさんの知り合いで、今回パラオで3か月間研修する目的で、急遽ホームステイ先のオランダからいったん帰国しての同行とのこと。このM君が今回の旅で通訳を買って出てくれました。
 パラオ行きの搭乗手続きまで十分時間があるので、遅い夕食を取るとにし食事をしながらしばし歓談。とてもついさっき知り合ったばかりとは思えない気さくさで話が弾み、心の片隅に残っていた今回の旅への一抹の不安も消え去っていました。

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