食事を終わってホテルに戻ると、Tさんが10月のパラオ行で見つけてくださった、残る2組の家族と会えるよう、M君に頼んで電話連絡を取ってくれます。しかし、留守だったり電話に出た相手の要領が得なかったりで、なかなか連絡が付かないまま時間だけが過ぎていきます。
この時点で、私としては母との接点がはっきりしていた花子さんの家族に会えただけで満足していたし、何よりウエキ氏から母たちの生活の一端が、間接的ながらも知れたことが何よりの収穫だったので、それでもう十分との気持ちでした。しかし消極的な私に代わってTさんはこのまま諦めるのはもったいないと、ぐいぐい背中を押してくれるのです。
すっかり暗くなった18時前、ようやく片方の家族と連絡が付きました。写真では草原に一人ぽつんと立つ男性が写っているだけで、顔もはっきりわからないので、10月にTさんに写真を託した時もその縁者を探すのは無理だろうと思っていたのですが、こちらに来て写真を見せると案外すぐに誰かというのが分かったそうです。男性はすでに亡くなっていましたが、彼の姪のレイチェル・テルコ・ベチェスラークさんがコロールで健在だったのです。
遅い時間なので押し掛けるのもどうかと思ったのですが、先方がウエルカムというので、急いでタクシーでその方の家を訪問。リビングでテルコさんとひと時の歓談を持つ事が出来ました。
ホテルに戻り、残る一組の家族に再び電話攻勢。あとで思うに、ひょっとしてTさんが私に一番合わせたかったのがこの家族だったのかもしれません。
少し微笑んでいるようにも見えるワンピース姿の少女が写った写真。母との接点は分かりません。でもパラオでこの写真を見せたら、誰もが知っているという有名人の少女時代のものでした。私は今回の一連の流れで知ったばかりでしたが、中島敦という作家が戦前のパラオに一時期滞在した時知り合い、短編「マリヤン」のモデルとしたマリア・ギボンさんだというのです。
中島敦が滞在した時期とその時のマリア・ギボンさんの年齢、母の年齢を重ね合わせると、ひょっとして母との接点というより、写真家の叔父のほうに接点があって写真を撮っていたものを母が譲り受けていた、とみるのが正解のように今は思えるのですが。
21時半を過ぎたころ、マリアさんの娘でパラオで2人しかいないという女大酋長グロリア・ギボン・サリーさんとようやく連絡が付きました。酋長という言葉からは一般的に未開の民族の男性権力者というイメージがあると思うのですが、母系社会のパラオでは尊敬を集める王族階級の女性という意味合いがあるらしく、現にグロリア・サリーさんはパラオでは「クイーン」とも呼ばれる人物だそうです。
会いに行く手はずで家までの道順を聞いていると、ホテルまで迎えを寄越すとのこと。外に出てしばらく待っていると、四駆の大きな車が入ってきて、運転手兼秘書?の女性とともに降りてきたのが当のグロリア・サリーさんでした。夜の遅い時間に向こうから出向いてくれたことにまず感謝。Tさんとの再会のあいさつの後、私が紹介され、ロビーで写真を見てもらいながら歓談。
パラオ人の写真で、まだ所在が分からないものについて、何か手掛かりをご存知ないかと尋ねてみると、一人については意外にもすぐに、この人はKiyarii Delutaochさん 子どものCarl Delutaochさんが博物館に至る道のすぐ近くに住んでいる、とすらすらと答えてくれました。もう一人については、多分この人で間違いないと名前は教えてもらえましたが、消息まではご存知ないようです。話しぶりから何か曰くありそうな雰囲気を感じて、それ以上突っ込んで聞くことはできません。1時間ほども話していたでしょうか、名残惜しく別れ帰って行かれました。
今回のパラオへの旅で期待していた事は100%、いや200%満たされた気分でした。もっと時間と経済的余裕ががあれば、母の夫、兄たちの父親が戦死したペリリュー島にも行きたかったし、最終日の最後に判明した人物の家族とも会う事が出来たかもしれません。しかし、それは現時点では果たせぬこと。写真に写る日本人の手掛かりはまだ誰一人ありません。
帰国に向けて荷物をまとめ、しばしの仮眠をとることにしました。
ふと目が覚めると日付は1月10日。出発時間と決めていた午前1時半になっています。慌てて部屋を出るとTさんたちはすでにロビーで待っていて、予約してあるタクシーも到着していました。3人とも私を空港まで見送りに来てくださるとのこと。
外は雨です。タクシーで一路コロール空港へ。
中国や韓国からの団体さんでいっぱいの受付カウンターを横目に、スムーズに手続きを終え、Tさん、Yさん、M君、それに初日からずっと世話になったタクシー運転手のおじさん(ごめん、名前をしっかり覚えてなかった)の見送りに手を振って、搭乗ゲートへ。
4時10分の予定をやや遅れて離陸。予定通り9時仁川到着。空港内のフードコートで昼食をとり、13時10分仁川出発。15時無事関空に到着。何事もなく手続きを終え入国。南海電車、JR大和路快速、JRみやこ路快速を乗り継いで、18時前に帰宅。
こうして私の5泊6日のパラオの旅は終わりました。
かつて多くの日本人移民が暮らし、やがて戦場となった日本から南に約3000kmの小さな島国パラオは、私にとって遠くて近い国です。日本が統治した時代を知る人はどんどん減っています。かつて日本人が建てた家屋はほとんど残っていません。パラオ語とともに公用語だった日本語も今や英語に変わっています。
しかし、かつての公用語で今の日本では死語になっている言葉が、パラオ語として今も使われています。例えば日本ではブラジャーと言っている女性の下着が、パラオではチチバンドとして通じるのだそうです。大正生まれの母が使っていた言葉です。
パラオでは現在外国人が単独で土地を取得したり商売することは禁じられています。コロールでは中国資本がどんどん入り、99年租借で土地を得てパラオの富裕層と共同でホテルやレストラン経営を行い、そのあおりで賃貸料が高騰して中小規模の日本人経営者は苦戦しているそうです。旅行客も中華系や韓国人の方が日本人よりも多いそうです。日本人旅行客が減ったことで日本からの直行便は今はもうありません。
しかし、今もパラオの人たちにとって日本は特別な国、日本人は敬愛を持って迎えられる存在のようです。日本人ももう少しパラオに目を向けてもいいのではないでしょうか。そしてTさんたちが行っている、バラマキではなく彼らの自立のための地道な支援活動が大きな実を結び、この良好な関係がいつまでも続いてほしいと願うばかりです。
最後に。
新聞記事にしてくださったことで今回の一連のきっかけを作って頂き、さらに多くの貴重な情報を教えて頂いた京都新聞南部支社長の大橋様。
ベラウ国立博物館に写真を寄贈する橋渡しをしていただいた台湾のパラオ民俗研究者陳様と京都大学職員内堀様。
パラオでの関係者探しに尽力頂き、旅の手配から現地で背中を押し続けるなど何から何までお世話になったNPO法人愛未来の理事長竹下様。揺れ動く気持ちに優しく寄り添って下さった山崎様。通訳を引き受けて遠い昔の話に付き合ってくれた佐賀大学の松本君。
旅の中で知り合いお世話になったたくさんの方たち。
そして、一庶民のファミリー・ヒストリーの長い駄文に付き合っていただいた皆さんに感謝。ありがとうございました。
昼近くになって昼食の調達にYANO惣菜店に行くことになりました。私だけその手前で降してもらい、昨日ウエキ氏から聞いた高橋商店のあったあたりの写真を撮ることに。
目印となるギフトショップ「ルー」は、実はこちらに着いた当日に一度訪れていた店でした。日本を発つ数日前にメールを頂いていたパラオ諸島戦史研究会のYさんから、パラオで生活している二人の日本人女性を紹介され、戦前の日本人の生活に関心がある人たちなので、向うに行ったらぜひ会ってみてくださいと勧められていたのです。その一人が「ルー」で仕事をしているTさんでした。店を訪れた際母の記事が載った新聞のコピーや写真を見せ、髙橋商店の売り物の一つにかき氷があったように、この店でもかき氷をやっていたので、それを注文して食べたのです。75年以上の時を隔てて同じ場所でのかき氷。これも何かの縁でしょうか。
もう一人の女性とも昨日お会いしていて、その方は日本地雷処理を支援する会(JMAS)に勤務するOさん。彼女からは当時の日本人社会を知る年代の方として、ウエキ氏とともにマサオ・キクチ氏のことも教えてもらいました。残念ながら滞在中の時間の制約もありお会いするに至りませんでしたが。Oさんは前日まで日本にいて今日パラオに戻ってきたところだったそうで、このタイミングも何かしらの縁を感じたものです。
Yさんから話を聞いたときは中高年の女性だろうと想像していたのですが、お二人とも20代から30代と思しきとてもチャーミングな方たちでした。
滞在1日目の夕食場所に選んだカープレストランは、旅行パンフやネットでもよく知られたパラオの名物レストランです。いわゆる大衆食堂の部類ですが、値段が手ごろなうえ量が他所の店の1.5倍はありそうなボリューム。そしてこの店のオーナーの奥さんが何よりの名物とのこと。年配のご夫婦とも日本人ですが、ご主人は野球の読売ジャイアンツのファンなのに対し、奥さんの方は広島カープのファン。奥さんの主張が通って店の名前をカープにしたそうです。この奥さんがまた気さくでよく喋る。
このカープレストランのオーナー岸川さんのお父さんが母と同じ佐賀県の出身で、戦前のパラオに出稼ぎに来ており、終戦時のアメリカによる日本人強制退去の際、孤児になっていた知り合いの日系パラオ人の少年を連れて故郷の伊万里に引き上げたそうです。この時の少年については少し詳しく後述します。
夕食から満腹で戻り、前日ほとんど寝ていないこともあってすぐに就寝・・・ところが2時間ほどで目が覚めてしまい、これ以上寝られそうになくて外を見ると星空! 早速カメラと三脚をもって、ホテルの近くの岸壁に出かけました。この時をはじめコロールに滞在中に撮影した星の写真については、1月のブログでアップしています。
1月7日。最初の公式訪問先はパラオ国立博物館。
地元紙・京都新聞に大きく紙面を割いて記事にしていただき、Web紙面でも取り上げてもらったことが、台湾在住のパラオ民俗学研究者の目に留まり、その友人の京都大学事務職員U氏を通じて、これまで見たことのない写真なのでぜひ国立博物館に寄贈されてはどうか、とのお話をいただきました。正直なところその扱いに迷い、いずれは破棄することになるかもしれないと思っていた写真だけに、パラオの博物館で展示保存していただけるなら、それが一番いいかもしれないと兄とも相談。
最初は郵送するつもりでいたのですが、急遽パラオ旅行がまとまったので直接手渡すことになりました。当初博物館の方では小規模ながら贈呈式を予定し、地元新聞社も来るよう手配するとのことでしたが、そういう事に不慣れで堅苦しいことは苦手なので、出来るだけ簡素に願いたいと伝えていました。
受付で来訪を告げると、気さくなおじさんという印象のサイモン・アデルバイ氏が応対。ロビー横の喫茶室で寄贈する写真のそれぞれについて確認することに。事前にリストにしてU氏経由で渡してあるので補足的な話をし、屋外に出て記念撮影。そのあと館内の展示物を案内してもらい再び喫茶室に戻ると、今度は少し年配の男性が待っていました。
アデルバイ氏から副館長のスコット・ヤノ氏と紹介され、再び写真についてのいきさつなどを話しながら歓談。今度も屋外に出て記念撮影も。ヤノ氏が日系なのかどうか名前だけではわかりませんが、日本の姓を名乗るのは日系人だけでなく、日本の植民地時代に、世話になったり親しくしていた日本人の姓を付ける純粋のパラオ人もいたとか。今ではアメリカ的な姓や名前を付けている人も多いようで、これも時代の流れでしょう。もうひとつ。前日昼食を買い求めた惣菜店YANOはヤノ氏の弟が経営しているとのことでした。
昼を過ぎたころになり、そろそろお邪魔しようとしていたら、副館長の指示で特大のハンバーガーが出され、遠慮なくごちそうになってから退出。
昼を過ぎ、ドクター・ミノル・ウエキ氏に会いにマラカル島に移動。しかし、事前にアポを取っていなかったのか生憎不在。出直すことになります。
ミノル・ウエキ氏について私は全く情報を持っていませんでしたが、Tさんの話では前述のカープレストランオーナーのお父さんが、終戦後に連れて帰った日系パラオ人の少年だということです。彼は日本に引き揚げた後、中学校に通い日本の教育を受けます。数年後、帰国が叶いパラオに戻り、さらにアメリカにわたって医学を学び、ふたたびパラオに戻り国立病院で医者として勤務、のちに政治家となり日本へはパラオ大使として3年間赴任経験もある、努力家の秀才という人物。日本との国際交流で貢献大ということで昨年秋の叙勲で旭日重光章を受けられたとのことです。
そんな人物と一介の民間人に過ぎない私が気安く会えるのかと不審に思いましたが、彼なら少年時代に戦前の日本人社会を知っているので、何か手掛かりの話が聞けるかもしれないと、Tさんの提案で進めていただいていました。これもTさんの顔の広さです。
1月6日は日曜日。公式訪問の相手先はいずれも休みなので、朝食までしばし仮眠を取り、食後にはこれからどう行動するかTさんたちと打ち合わせ。TさんとYさんは2週間強の滞在のうち、農業支援のため現地の各方面と会合や打ち合わせの予定が詰まっているのですが、私が滞在する1週間弱の間はこちらの予定を優先していただけるとのこと。M君の方はホームスティと研修が1週間先から始まるので、彼も私に付き合って通訳を引き受けてくれることになりました。
打ち合わせが済んで昼近くになったので、Tさんの案内でコロールの中心街を見学に行くことに。空港のある本島バベルダオブ島からコロール島を貫いて、隣接するアラカベサン島とマラカル島に至る幹線道路沿いのコロール島の真ん中あたりにホテルやスーパーマーケット、土産物店が並び、警察署、郵便局、銀行などの公共施設もあります。
しかし、パラオ唯一の繁華街とツアーのパンフレットなどには紹介されているものの、感じたままを正直に言えば、日本の地方都市の駅前商店街といった印象。幹線道路が広く、間口の広いお店が間隔を広くとって並んでいるのと、全体に建物が古い印象があって全体としてそう感じたのかもしれません。
車は間断なく通るのですが信号機は見かけません。横断歩道もなく歩く人もまばら。パラオ人の人口が少ないのと、観光客の目的はほとんどが海なので、ダイビングから戻ってくる夕方からが活気づいてくるのでしょうか。
一番大きなスーパーマーケットのWCTCに入りぐるりと一回り。棚に並んでいるフルーツや野菜など一部の地元食材以外はほとんどが輸入品。特に目立つのがアメリカの商品で、次に多いのが日本の商品。東南アジアからのものも目につきました。観光資源以外これといった産業がなく、アメリカと日本の経済援助に頼っているのが現状らしく、物価は日本とほとんど変わらないようです。
かつて日本が入植し先住民に農業を指導したというのも今は昔。敗戦で日本人が引き上げアメリカが信託統治するようになると、経済支援はするが自立のための支援はしない政策をとります。日本の教育を受け農業をしていた人たちも、時とともに老い彼らの子どもの代になると多くは自生しているイモ類を主食に、いつでも手に入るフルール類を食べ、自分達が食べる分だけ漁で魚をとるといった、元の生活スタイルに戻ってしまったようです。あくせく働かなくても食うに困らないし、経済支援を受けているからそこそこのレベルの生活ができるというわけです。
酋長と呼ばれる昔からの名家の一門、いわゆるエリートでインテリ層である人たちは国の将来を考え、外国資本を呼び込んで提携し観光産業に力を入れ、あるいは自立のため農業振興、養鶏などに取り組んでいて、NPOのTさんの支援活動もそうした流れの中にあるそうです。しかしパラオ人の国民性と、かつての日本のような半強制的な手法は現在では通用しないので、なかなか難しいことのようです。
もうひとつ、農業支援がはかどらない原因が土地問題にあるとのこと。戦前に日本人によって開墾された土地は土地台帳で管理されていましたが、戦争によって失われ、その後の混乱もあって、土地の所有者が誰なのか今もって争われている場所が多くあり、うかつに支援に入れないのだとか。
またしても話が逸れてしまいました。
WCTCを見学後もいくつかの食料品店を見てまわったのですが、その1軒で思わぬ出会いがありました。前年の10月に預けた写真をもって人探しをしてくださったTさんですが、その時見つけてくださっていた3組の家族のうち、パラオ美人花子さんの孫夫婦が買い物に来店していたのにTさんが気づき、その場でご対面。この時は軽いあいさつ程度で済ませたのですが、2日後、もう一度会うことになります。
さて、歩き疲れてきたのでそろそろ昼食をということでWCTCまで戻り、隣のYANO惣菜店で食料調達。手軽に安価に済ませるときに便利な店と、ネットの観光案内でも紹介されている店です。値段と量を見て納得。せっかくだから現地食を食べたいと言ってタピオカや鶏肉の総菜を買って、ホテルに戻り遅めの昼食にありつきました。
昼食後はホテルの周囲を散歩したり部屋で休憩したり。
昼食を安上がりで済ませたので、夕食はTさんのなじみのレストランですることになり、タクシーでマラカル島にあるカープレストランへ。このレストランは旅行前にネットで調べていて私が一度は行きたいと思っていた店でした。ちなみにパラオでは鉄道や公共交通機関はないので、少し距離のある移動はレンタカーを利用するか、事前交渉で運賃を決めるタクシーを利用することになります。
カープレストランについては次回に。