掌編書きました
10秒タイムトラベラー
その能力に気付いたのは昼食後のひと時、台所のテーブルでくつろぎながらテレビのワイドショーを見ていた時だった。
“あれ? 今さっきやってたシーンがまた繰り返されてる・・・”
デジャビュのような、でもちょっと違うような感覚だった。見るともなしに手に持っている湯呑を見ると、飲んだばかりのお茶が減っていない。でも喉にはぬるいお茶を流し込んだ感触が確かに残っていた。
“何だこの感覚は?”
そこでひょいと閃いた。もしかしてこれはタイムトリップ? SF好きの血が騒ぐ。試しに、過去に戻れと念じてみると、果たしてワイドショーのシーンがまた少し前に戻って繰り返されている! 今度は湯呑のお茶をがぶりと流し込み、再度過去に戻れと念じてみる。やはり手にした湯呑には元通りお茶が戻っていた。
テーブルの向かいで一緒にワイドショーを見ている家内は、気が付いているのだろうか? そっと盗み見るように顔を伺うと、視線を感じたのか怪訝な表情で、
「何じろじろ見てるん」
咄嗟に、
「いや、いつ見てもきれいやなあと見惚れてたんや」
「あほらし」
素っ気ないひとことを残しテレビに視線を戻したその横顔は、まんざらでもなさそうに見える。
どうやら私のタイムトリップに気が付いていないようだ。そう分かると大胆になって、その場で何度かタイムトリップを繰り返してみた。それで分かったことがいくつかあった。過去には戻れるが未来には行けないという事。それもたった10秒だけ過去へのトリップ。いやこの場合タイムジャンプと言ったほうが似合っているかもしれない。これはどういうことだろう。何故過去への一方通行なのか。何故10秒なのか。そして何故過去の自分と出会わないのか。
ここでまた閃いた。作用があれば反作用があるのはモノの道理。だとすると私が過去にジャンプするそのタイミングで、過去の自分が未来にジャンプしている! それで相殺され同時刻に同じ人間が二人存在するというパラドックスが解消されているのかもしれない。私が過去にしかジャンプできないように、もう一人の自分は未来にしかジャンプできないのだろう。
自然に任せ10秒経って元の時間に戻っても、もう一人の自分に出会っていないという事は、自然の時間の流れに乗っている私ともう一人の自分は、同じ時間の流れの中で10秒間隔で隔てられているということだろうか? それとも所謂パラレルワールドというやつで、10秒ジャンプを繰り返すたびに少しずつ違った別の世界に分岐して、別の歴史を生きているのだろうか? ジャンプ前とジャンプから10秒後とで、考えていること、していることが微妙に違うのだが、これがどっちによるものか確かめようがない。ま、どっちにしても私自身に現在進行形で起きていることは同じだといえるだろう。
では10秒という制約は? これもよく分からない。たった10秒過去にジャンプ出来て何の意味があるのだろうか。例えばうっかり手を滑らせて割ってしまった花瓶を、10秒遡って救うことはできるかもしれない。しかし僅か10秒では、誰かを危険から救うような人命救助に役立てられるわけではない。ロト6の発表を見てから購入期日まで戻って、その番号を手に入れ億万長者になるなんて芸当には程遠いじゃないか。
いや、そうじゃないかもしれないぞ。ひょっとして連続ジャンプってのはどうだ。10秒ジャンプを6回繰り返せば1分、360回繰り返せば1時間過去に戻れるかも。ジャンプを繰り返せばどの過去に戻ることだって! でもそれを家内のそばで試すわけにもいかないので、ワイドショーに飽きたふりをして自室に戻り、パソコンの前に座りユーチューブ動画を流す。これだと時間経過を秒単位で確認する事が出来るからだ。
言うは易し行い難し。実際連続ジャンプをしてみると非常に疲れる。体力のある若い頃ならともかく、古希をとうに過ぎた運動不足の身にはきつい。4~50回もジャンプを繰り返すと、気力も萎えてその次に何をするという気も起らない。それにジャンプから次のジャンプまでに、わずかなタイムロスが生じることも分かった。過去に戻って何かをやろうと思えば、5分前に戻るのがせいぜいだろう。
そこでまたまた閃いた。10秒前じゃ何もできないが、5分前に戻れるなら、やれることはそこそこある。
若い頃職場の同僚に誘われて何度か競馬場に行ったことがある。勝ち馬投票券を買って手に汗握ってレースを観戦するのだ。予想が当たれば当たり本数に応じて当選金が分配され、うまくすればそこそこの一獲千金も夢じゃない。しかし私はそれっきりだった。自分にはギャンブル運がないことがはっきりわかったからだ。もし初めにビギナーズラックとやらで美味しい思いをしていたら、その後の地道な人生が変わっていたかもしれないが。
ただ、競争馬の洗練された姿が懸命に疾駆するレースそのものには、純粋に魅了されるものがあったので、カメラと望遠レンズを手に年に数度の競馬場通いは続けている。
競馬場も若い頃からずいぶん変わった。昔は一獲千金を狙うオヤジたちの社交の場だったが、いつしか家族連れで来て父親たちがギャンブルにいそしんでいる間、母親と子供は併設の遊園地で遊び、食事をして帰るというふうな施設に変貌していった。そして今は若者たちをギャンブルに引きずり込もうと、手を変え品を変えCMを流している。これも時代の流れなのだろう。願わくば将来ある若者がギャンブル依存症にならないように。
で、本題に戻ると、勝ち馬投票券はレースの始まる1分前までなら買う事が出来る。接戦でレースが終わって結果が出るまで時間がかかることもあるが、レース自体は2分程度で決着がつくので、5分の猶予があれば勝負を見届けてから過去にジャンプし、当たり馬券を手にすることが可能だ。
週末を待って、家内には久しぶりに競馬場に行ってくると告げ、カメラ機材用のバッグを肩に掛け出かけることにした。定年退職以来カサ高い亭主に家でゴロゴロされているより、何処になと出かけてくれた方が家内も気が楽だろう。亭主がなにを企んでいるかも知らず、何も言わず送り出してくれた。
競馬場に着くと先ずは発券機を確かめに。昔は窓口でおばちゃんが応対してくれたものだが、今はナンバーズの申込用紙に似たカードに必要事項をマークし、それをATMのような発券機に通して勝ち馬投票券、いわゆる馬券を買うことになる。慣れないとまごまごして時間がかかりそうなので、他人が買う様子を見ていたら、若い兄ちゃんから凄い目つきで睨まれてしまった。
“あんたの予想を盗むつもりはないよ”
念のため場内係員に買い方をレクチャーしてもらい、これで大丈夫。
第1レースはそれでも様子見という事にして、レース観戦し、ゴール盤に順位が点灯するのを待って発券機に戻る。時計を確かめるとざっと3分半。時間は十分だ。第2レースも見送って、3レース目に馬券を買った。枠番連勝複式、略して枠連複という昔からある予想形式だ。競走馬が枠単位で番号を振られ、1着と2着の番号を当てれば良く、番号が予想と逆順になってもとにかく1着と2着になっていれば良い。配当金は時に100円の元手が万札になる、いわゆる万馬券と呼ばれる高配当になることもあるが、大抵はそれほどにはならず予想が立てやすいというわけ。
このレースは配当が300円付いて1000円の元手が3000円になった。可愛いものだが生まれて初めての勝利に少し興奮。まあ勝って当然なのだが。
次のレースではオッズ(予想配当)から5万円の万馬券が出ると分かり、3000円で三連勝単式、略して三連単を買い、一気に150万円を手にした。これは競走馬ごとに振られた馬番号を1着から3着まで、その順番通り当てなくてはならず、予想は難しくなるがその分配当金も大きくなるという仕組みだ。競馬では枠は8番までと決められているので、レースに出走する競走馬が多くなると2、3頭ごとに同じ枠番が振られるようになる。なので枠番での予想は競走馬の頭数が増えてもそれほど難しいわけではないが、馬番号では出走馬が増えると格段に予想が難しくなる。ま、ギャンブルとはそうしたものだ。
私はといえばあらかじめ勝ち馬を知ったうえでその投票券を買うので、ギャンブルではなくちょっとした・・・いやいや大したズルをかましての堅実な投資である。想像することはあっても、根が小心者の私が実際にこんな大胆な行動をとるなんて、ちょっと前ならあり得ないことだったが。
その後も三連単で荒稼ぎして、カメラバッグは札束でぎっしり埋まってくる。こうなると小心者の悲しさ。誰かに眼を付けられ絡まれてくるんじゃないか、帰り道で強盗に遭うんじゃないかとビクビクして、気分が落ち着かなくなってしまった。そこで最終レースまで数レースを残し、早々に競馬場を後にすることにした。
肩からタスキ掛けにしたカメラバッグが重いのを確かめながら、時にニヤニヤ、時に辺りをきょろきょろ見回しながら、ようやく家に帰り付いてほっと一安心。しかし、家内にはギャンブルの事はおろかタイムトラベルの件も話していないので、いきなりこんな大金を見せたら説明も聞かずに110番されかねない。ここは黙ってひとまず大金を隠し、追々頃合いを見計らって打ち明けたほうがいいだろうと判断した。
「あら、いつ帰ったの? いい写真撮れた?」
自室の押し入れにバッグを仕舞い込んでいたら、いきなり後ろから声をかけられ、飛び上がってしまった。
「うわあ、あ、ただいま」
「なんでそんなびっくりするの。なにかやましいことでもしてきたの?」
女の勘は恐ろしい。しどろもどろになりながら、
「いや、その、今日のレースはあんまり面白うなかったんで、写真は撮ってないのや」
「そう。夕飯の支度中やから先にシャワーでも浴びて」
「そやな、そうするわ。今日は疲れた」
それは本音でもある。今日は1日ずっと緊張の連続で疲れていたのを、自分の言葉で急に自覚してしまった。
夕食を済ませると一気に眠気が差し、いつもより早めに布団に潜り込むことにした。いくら稼いだか金勘定は明日にでもゆっくりやろう。
目が覚めたのは昼に近い時間だった。まだ何となく気だるいが腹も減っていいるので起きだして台所に行くと、指定席でテレビショッピングを見ていた家内が振り返った。
「あら、眼が覚めたん。朝起こしかけたんやけど、よう寝てるしそのままにしといたんやけど、お腹空いてるでしょ」
「うん、腹減って目が覚めたわ」
「ちょっと早いけど、早昼にする?」
「ああ、それでええよ」
いつも昼はパン食にしているが、朝の残りの味噌汁があったので、ご飯にかけてガサガサと掻き込むと一息ついた。
「昨日はよっぽど歩き回ったんやね、そんな疲れて帰って来るやなんて」
菓子パンをちぎって食べながら聞いてくるのに、生返事をしながらお茶を飲み干しそそくさと席を立った。下手に話を続けると馬脚を現しそう・・・。
どうも気が逸る。部屋に戻ると押し入れを開けて中を覗き込んだ。
無い!
札束が詰まったカメラバッグが無い! 確かに帰ってすぐに押し入れに隠したはずだが、思い違いで別の場所に置いたのだろうか。この頃よくもの忘れをする。ついさっきのことも忘れてしまう事がままある。歳のせいにしたくはないが、物を置き忘れて探し回ることもしょっちゅうだ。そう思って思いつく限りあちこち探してみたが、見つからない。カメラと小ぶりの望遠レンズが入るだけの小さなバッグだが、それでもカメラバッグである。そこいらに紛れてしまうような小さなものではない。
押し入れに隠していたところを後ろから覗かれて、もしかして家内に気づかれてしまったんだろうか。いや、そんなはずは無い。もし大金の入ったバッグを見つけたら、黙ってネコババするような女ではない。むしろ私を疑って警察に自首を勧めるようなまっすぐな質の女なのだ。ではバッグはどこに消えた? 家に持ち帰ったのは間違いないのだ。
ふと嫌な考えが頭をよぎった。もう一人の自分が私が寝ている隙にバッグを奪って未来に高跳びしたのではないだろうか。法に触れるわけではないはずだがズルをして大金をせしめた私のことだ、訳ありの金をもう一人の自分が横取りして逃げたとしても、あり得なくはない。私の金を自分が持ち逃げ? しかも未来に逃げられたら私には追いかける手段が無い。万事休すだ。
しかし、考えてみれば同じ一方通行でも過去に戻れる私には、こうして大金を手にするメリットがあるが、未来にしか行けないもう一人の自分にはどんなメリットがあるのだろう。不治の病を得て遠い未来の治療に託すというなら大いに意味があるが、たった5分やそこいらの未来では問題外だろう。それに他人の金を奪って逃げれば確実に犯罪だが、自分のものを持っていくなら犯罪ではない。大それた犯罪を犯すようなことなどできない小心者の私にとって、いや、もう一人の自分にとって、これは濡れ手に粟の大金を手に出来るぎりぎりの手段ではなかったか。そう思うと哀れでもある。
いやそうではなくて、私が苦労して稼いだ大金を、もう一人の自分は後ろ暗さなく手に入れる事が出来る。なにしろ自分では手を汚さず、しかも私が稼いだ自分の金なのだから・・・これでは私は骨折り損のくたびれ儲けではないか。
しかし、これはあくまで仮定の話である。ひょっとして気が変わってそっと元の場所に返してくれるかもしれない。あるいは忘れたころにひょんなところで見つかるかもしれない。それがもう一人の自分の仕業なのか、単に私の思い違いの置き忘れだったのか、どっちなのか証明する方法は無いのだ。それにしても・・・あのバッグの中にはいくらぐらい入っていたのだろうか。失ってしまっては数えていなかったのが幸か不幸か。
そんな妄想をしていた時、玄関のチャイムが鳴った。
「はいはい」と返事をしながら玄関に向かった家内の、素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「なんでこんなとこに、お金の詰まったバッグが置いてあるの!」
“ヤバイ!”
そこでまたまたまた閃いた。これはもう一人の自分の、私への警告なのだ! 自分に似合わないズルはしてくれるなと。未来のもう一人の自分は、私以上に小心者だったようだ。それとも私の小さなズルの積み重ねが、やがて大きく歴史を変える事になるかもしれない。それを見越しての警告なのだろうか。
10秒先にいるもう一人の自分と違って、私には未来が見えない。