今日の太陽 2020/4/23


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3月17日。当初様子見のため15日間、3月20日までの自粛要請としていた政府はこの日、あと14日間、3月末日までの延長を要請しました。当初の15日間では状況を見極められないと判断したようです。
大都市の路線バスの運転手をしている沖田は、疫病が国内に入ったと聞いた時から一抹の不安を抱いていました。混雑時には狭い空間に不特定多数の人間がすし詰めになる路線バスで運転手をすることは、常に感染の危険にさらされているようなものだからです。特に彼の場合同僚に比べ若く体力があることと強い使命感から、身障者の車いすやベビーカーを抱えた乗客を見ると、自ら進んで乗降の手助けをする機会が多かったので、それだけ濃厚接触感染のリスクが高かったのです。
政府から外出自粛要請が出ると乗客が減りましたが、ガラガラの状態で走るところまでには至りません。そんな時、別の営業所の路線バスの運転手に疫病感染が見つかりました。運転手の家族、同僚も感染検査を受け、数人に陽性反応が出たことで、その営業所は10日間の閉鎖、そこを発着するバスも運航休止の措置がとられました。民営である沖田の会社にとって乗客減に加えてのこの事態は経営に大きな打撃を与えることになりましたが、公共交通機関の一翼を担っているということで安易に全社休業とはできません。
沖田のストレスは次第に高まっていきました。それは同僚たちも同じだったでしょう。
沖田の妻、秋江は住まい近くの食料と雑貨品を扱う中規模小売店で事務のパートをしていました。政府からの在宅勤務要請を受けて、会社は販売部門はそのまま営業を続け、事務職は在宅勤務に切り替えることとなりましたが、パートである秋江はこの機会にと人員整理の対象にされ、雇用を打ち切られてしまいました。
沖田家は数年前にローンを組んで自宅を購入しており、秋江の失業はローン返済の計画が狂うことを意味しますが、社会に疫病による不景気が広がるなか、おいそれと次の就職先が見つかるわけもありません。沖田と秋江が不安とストレスを募らせていくことに不思議はありませんでした。
それは小学校5年生の隆文にとっても同じです。学校が休校になって家に閉じこもった最初のころこそ、勉強があまり得意でない彼にとって、学校が休めることはうれしかったものの、以来友達と遊ぶ機会も少なくなって不満が高まってきていました。
ある日、隆文は友達のところで遊んでくると言って、秋江の制止を聞かず出かけてしまいました。数時間後、かつての同僚から秋江に電話が入ります。同じようにパート解雇されていたその女性が、たまたま買い物で出かけた先で、ゲームセンターで遊んでいる隆文と数人の小学生を見かけたというのです。
あたりが薄暗くなったころ帰ってきた隆文に、秋江はどこで何をしていたか問いただしますが、後ろ暗い彼は正直に答えようとしません。そんなところに、早出番だった沖田が帰ってきて、妻と子供の口論に出くわします。何事かと尋ねる沖田に秋江が友人からの電話の件を話し出すと、隆文が横から言い訳を始めました。と、次の瞬間、沖田の手が隆文の頬に飛びました。
これまで妻にも子供にも手を上げることはおろか、暴言も吐いたことのない沖田のこの行動に、一瞬その場が凍り付いてしまいました。頬の痛みに我に帰った隆文はワッと泣きながら自分の部屋に逃げ込んでしまい、秋江は何もそこまですることは無いのにと、非難の眼差しで抗議しますが、それを一番わかっているのは沖田自身でした。反射的に自分の起こしたこの行動に彼自身が一番ショックを受けていたのです。沖田は何も言わず家を出ました。一人残された秋江は心の整理がつかないまま、言い知れぬ不安に覆われていきます。
疫病による社会不安が、それまで仲の良かった家族にまで暗い影を落とし始めたのかもしれません。
一人家を出た沖田も、心の整理がつかないまま車に乗りあてもなく走り始めました。子供を叩いたこと自体よりもなぜあの時抑制が働かなかったのか、漠然とした不安とストレスに負けた自分が情けなかったのです。本来の彼が優しく理性的な性格だったことがうかがわれます。しかし、まだ理性は戻っていなかったのでしょう、隆文同様彼もまた心のどこかで言い訳を探していました。と、その時、対向車線に車が飛び込んできました。考え事に飲まれていた沖田はそれを避ける事が出来ず、正面衝突してしまいます。
気が付いた時、沖田は病院のベッドで横たわっていました。病室の外では妻の秋江と子供の隆文が心配そうにのぞき込んでいます。医者からは腕を骨折していたものの命に別状はないと言われ、手当てを受ければすぐにも退院できそうに思えましたが、医者は言葉を濁しました。
事故を担当した警官によると、事故直後に沖田は車を出て相手方の運転手を助け出そうとしていたようで、その後骨折の痛みから気を失っていたらしいのです。救急搬送されたのが沖田家のかかりつけの病院で、そこから秋江に連絡が入っていました。
衝突相手については相手の運転手も事故では無事だったものの、高熱が出ており念のため検査をしたところ疫病に感染していました。高熱に浮かされながら運転をしていてハンドル操作を誤ったらしいのです。沖田も相手を助け出そうと接触していたことから、感染検査を受けることになりました。
数日後、主治医の中村医師から陽性との検査結果が告げられます。しかし沖田さんは若いし体力もあり既往症が無いので、ここで無理しなければ無症状か軽症で済むでしょう。ご家族にうつさないためにも通院よりもしばらく入院を勧めます、との事でした。それを告げる中村医師の顔色が悪いことの方が沖田にはむしろ気がかりでした。
大都市に隣接するこの街の救急指定病院の勤務医である中村医師は、国内で疫病感染が広がり始めたころから、感染症に詳しい医者という事で、大都市にある関連病院から要請を受け指導応援に派遣されていました。病院の受け入れ態勢を見直し準備を始めるつもりで引受けたのですが、実際には送り込まれてくる患者の数が日増しに増え、症状別に優先順位をつける段階にまで状況が悪化していました。中村医師もその波に飲み込まれ、経験の浅い医師の指導どころではなく、直接患者の治療に当たらざるを得ない中、マスクや防護服なども不足してきました。
そして、病院が一番恐れていたことが現実となります。院内感染の発生でした。中村医師の担当する部署ではなかったものの、病院は救急に限っての受け入れに舵を切り、一般外来は無期限休診となりました。応援派遣の中村医師はいったん任を解かれ元の病院に戻りますが、思い描いていたプランに着手することなく戻ってきた無力感が、疲労と共に彼の心と体に重くのしかかっていたのです。
戻ってきた病院でも着実に感染患者は増えていましたが、ここでは彼の指導で適切な態勢が敷かれており、まだ少しの余裕をもって状況に対応できていました。そんな中、沖田と事故相手の患者が救急搬送されてきたのです。医者としての使命感とこれまで蓄積した疲労とがせめぎあうなかで、中村医師の戦いはまだ先が見えそうにありません。蓄積疲労による免疫力低下を懸念しながらも、まだ倒れるわけにはいかないと自分を励ます毎日が続きます。
4月2日。世界保健機構は疫病による感染者が世界で200万人を超え、死者数は40万人に達したと発表しました。実に5人に1人が死亡するという惨状が世界を覆っていたのです。しかし、感染自体は人口比で世界中あまり大差なく広がっているにもかかわらず、死亡者の大半は実は医療体制の未熟な国・地域に限られ、治療を十分に受けられない、若しくは栄養状態が悪く抵抗力の弱い人々が、感染と共にバタバタと倒れ息を引き取っていているのです。
最初、この疫病は金持ちの病気と言われていました。仕事や観光で外国旅行できる人たちが感染していたため、そんな生活とは無縁の貧しい人たちは自分とは関係ないと思っていたからです。しかしいったん自国に持ち込まれた疫病は、貧富の区別なく広がり続け、むしろ貧者にこそ致命的な打撃を与えるに至ったのです。
4月10日。最初に感染が広がったC国で、V市が都市封鎖を解除し疫病の封じ込めに成功したと宣言します。
V市ではここ10日ほど新たな感染者はなく死者も出ていません。さらにC国全土でも新たな感染者は1桁台で推移していると、全体主義国家の体制のすばらしさを誇らしげに宣言したのです。
世界でも医療体制の発達した先進国では新たな感染の発生はピークを迎え、徐々に数を減らしつつありました。医療崩壊を起こした国でも先進国とみなされるところでは、死者数はまだ高水準で推移しながらも、ここでも新たな感染者数の曲線は緩やかになってきました。
今や疫病の主戦場は完全に発展途上国に移っていたと言えるでしょう。
4月30日。世界保健機構は疫病の終息宣言を発しました。
後半、発展途上国で猛威を振るった疫病は先進地域を上回る死者を出して、ようやく終息を迎えるに至ったのでした。
死者を多く出した国・地域では政情が不安定化し、国としての再建が困難を極めるところも予想されます。そこまでひどくなくても多くの国で経済的打撃はすさまじく、社会復興まで数年の時間は要するでしょう。その間の政府の対処次第によっては、多くの失業者が固定化され、貧困に由来する死者が大量に出るかも知れません。経済の停滞による税収の不足があり、救済に回せるお金がないからです。
N国はどうなったでしょう。民主主義を標榜する先進国の中でも、格段に感染者、死者数とも少ないなか感染のピークを越えたようです。各国はその成果に目を見張り、なぜこの結果に抑え込めたのか知りたいと考えているようです。
N国政府は、自身の対処政策が正しかったと胸を張りますが、野党はそもそもの水際対策の拙さや、要請だけを何度も繰り返し経済補償を渋ったせいで、会社事業の廃業、倒産が増大し失業者があふれた責任を追及します。感染者や死者が他国に比べ少なく抑えられたのは、政府の方針に従順に従う国民性のおかげで、決して政府の成果でない。これでは一将功成りて万骨枯れるだ、とまで言い切る党首もいます。
対して政府は、これまで休業補償に回さなかったお金を、これからの経済復興に大量につぎ込むつもりで、これこそ生きた金の使い方だと反論します。しかし、そのお金はもともと国民の収めた税と、膨大な赤字国債という借金によって賄われることを、政府も野党も忘れてはいけないでしょう。
N国では間もなく総選挙が始まります。国民が今回の政府の対応をどう評価するか、世界も注目するところのようです。
5月のある日。一旦終息したかに見えた疫病が再び人間に牙をむこうとしていました。感染者の体内で毒性を増した変種になっている可能性もあります。まだ疫病に対して有効な薬は開発されるに至っていません。各国の復興はまだまだ先のことです。
お話はここでおしまいです。
緊急を要する未曽有の災厄に見舞われたとき、それに立ち向かうには強引に国民を従わせて思い通りの施策を実行できる独裁若しくは全体主義は有効かもしれません。いわば性悪説に基づく政治支配です。対して個々人の自由な選択を尊重する自由民主主義は、こういう事態の時往々にして無力です。個々人のモラルに期待する性善説の限界でしょうか。
非常時に有効な全体主義は平時には国民にとって最悪でしかありません。国民を信用せず少数の支配によって思い通りに従わせるからです。対して平時に民主主義は有効です。個々人の自由な思想と活動は社会を刺激し活性化するからです。しかし行き過ぎた自由主義は貧富の差を容認し、結果として少数の支配による社会、つまり独裁や全体主義につながる素地があります。
自由民主主義と全体主義、それぞれに長所短所がありそれをうまく組み合わせることはできないものでしょうか。例えば民主主義社会においても、非常時に備え政府に絶対的権限を与える戒厳令を創設しておくことも考えられるでしょう。しかし、そこには時の権力が恣意的に運用できない確固たる縛りを作っておくことが絶対条件です。国民の多数が非常事態を抜けたと思っても、政府が非常事態と強弁して戒厳令を敷いたまま独裁を続けることは、世界の歴史を見れば枚挙にいとまがありません。戒厳令やそれに類する強権の付与は、非常時に薬だったものが平時には毒に変わるという劇薬です。
さて、架空のお話は終わりましたが、SF好きとしてはこんな結末も用意してみたいと思います。
6月に入って再び猛威を振るい始めた疫病は、すでに疲弊していた人間社会をさらに打ちのめし、あっという間に感染者は世界人口の半分以上、死者数はその半分に至ります。世界人口は実に4分の1以上を失い、国家は機能せず社会は崩壊しますが、それでもまだ終息は見えません。
そんな人類の終焉ともいえる状況を、宇宙の片隅で観察し続ける存在がいました。この存在が疫病を人類の上に振りまいたのでしょうか。人類の滅亡を手を下さずに待っているのでしょうか。それは分かりません。ひょっとしたら、残された人類が英知を振り絞り、どんな困難にも対処できる新しいシステムを作り上げることを期待し、待っているのかもしれません。この存在が人類の新たな英知の誕生を待っている、せめてそうであることを信じたいものです。
このお話は近くて遠いどこかの国の出来事の顛末を記録したものです。
出来事の本質を見やすくするため登場人物を限定して、進めていこうと思います。
出来事の舞台となるのは、N国の大都市に隣接するベッドタウンのとある街。
大都市の交通機関である路線バスの運転手の夫と、地元の街の会社に勤めるパート事務職の妻、その子供である小学5年生の男の子の家族。この家族のかかりつけ病院でもある街の中規模病院の主治医の医師、この4人が登場人物です。とはいっても登場はほんのわずかですが。
2000某年1月20日。隣国のC国で原因不明の疫病が発生したと発表されました。
疫病は医療環境が不十分な地方都市Vで発生しましたが、V市の責任者たちは風評被害を恐れ当初その事実を伏せていましたが、瞬く間に感染者が増え間もなく死者が出たことで、隠しきれなくなり公表に至りました。
C国政府も最初はV地方の風土病ぐらいに捉え、十分な対策が後手に回ったことで数千単位の人々が感染するに至り、ようやく交通遮断、都市封鎖に動き、感染封じ込めに本腰を入れたようです。しかしC国政府を挙げての感染対策にもかかわらず感染者も死者も増加の一途をたどりました。
感染者数と死者数が増加するにつれ、疫病の性質も次第に明らかになりました。感染者との接触や咳などの飛沫を浴びることにより伝染すること。そのためマスクの着用やうがい手洗いの徹底に効果があること。感染してから発症するまで10日間の潜伏期間があること、これまでに知られた疫病より感染力は若干強いものの、致死率はそう高くないこと。感染者の8割は軽症で、感染の自覚がない場合が多いものの残る2割では重症化し、初期対応が遅れると死に至ること。まだ有効な薬は見つかっていないことなどなど。
この時期、世界の国々はC国の医療環境の遅れや初動対応の拙さを非難するものの、過去に疫病の大流行で苦い思いを経験した一部の国を除き、どこか対岸の火事を様子見しているようなところがありました。N国の政府も同様でしたが、隣国からの観光客を多く受け入れている事情もあり、発生源の都市からの入国制限や入国管理での健康チェックなどは実施することにしました。しかし緊張感の欠ける指示が末端の職員に伝えられるだけでは、徹底した水際防止にはつながりませんでした。
2月5日。N国内で最初の感染者が見つかりました。
C国から帰国した商社マンで、感染源の都市に近いところで商談を済ませての帰国者でした。入管では軽い風邪の症状を申告したそうですが熱もなくそのまま通過して、空港からタクシーで会社に出社、上司に報告を済ませ公共交通機関を乗り継いで帰宅後、発熱と嘔吐が始まり近くの病院で受診したところ、C国で発生した疫病と同じだと判明しました。
N国政府は直ちに入国制限地域を広げる対応に走りましたが、この時点ですでに帰国者や海外からの渡航者など、無症状の複数の感染者が入国しており、交通機関、家庭、会社、観光地の飲食・娯楽施設などでの接触を通して、国内感染が始まっていたようです。
2月10日。国内での感染が疑われる症例が複数見つかりました。
それまでは外国からの感染経路をたどれる患者の方が多かったのですが、どこで感染したのか経路をたどれない感染例が増加してきたのです。時を同じくして、複数の外国でも感染者の発生が報告され、世界規模で疫病の流行が確認されるに至ります。
2月25日。多くの国・地域において爆発的な感染者増加が報告され、世界保健機構はついに疫病の世界的大流行を宣言します。
初期に徹底的な水際対策を講じた国では若干の感染者は出たものの、概ね抑え込みに成功しているように見えた半面、様子見に終始し対策が遅れた国や、もともと医療体制の脆弱な国では、医療崩壊を起こす事態にまで感染が広がり、数日単位で感染者と死者の数が倍増していく状態が続きます。
N国では爆発的感染が諸外国に比べ抑え込まれ健闘しているように見えましたが、他国では感染検査を大規模に行っているのに比べ、あくまでも感染者の周囲の接触が疑われている場合に限っての検査だったため、国の内外から、実際にはもっと多くの感染者がいるのではないか、との疑問の声が日増しに多く上がっていました。
N国政府はそんな声に対し、検査精度が高くないうえ検査対象を広げれば陽性と判断された人が病院に殺到し、早期に医療崩壊を起こすと危惧し、あくまで限定的な検査に終始しました。すでに医療崩壊を起こしかけている国では、陽性や擬陽性者を症状に分けてそれぞれ自宅や公共施設などに振り分け隔離、重症者に限って病院に搬送するといった、対処を始めているところもあったにもかかわらず、N国政府は自分たちの考えに固執し、柔軟に対応する事が出来なかったようです。
それは都市封鎖という強硬手段においても同じでした。政府にとっても国民にとっても劇薬ともいえる都市封鎖は、先ず全体主義国家で実施され、一定の効果を上げつつありましたが、個人主義が徹底した民主国家を標榜する国でも、政府の要請に従わない人が感染を広げているとして、緊急避難的に罰則を設けるなどして抑え込みにかかり、それでも効果がないとわかるとやむなく戒厳令に踏み切るところも出てきました。
N国政府では過去に緊急事態を想定して法律を拡大解釈してきた前例があるものの、実際に喫緊の課題に直面しながら、国民を縛る都市封鎖を中心とした非常事態宣言の発布をためらっていました。表向きは民主国家たる我が国では政府による国民への命令は憲法で認められていない、というものでしたが、実情は国民を縛る代わりに生活を保障するための経済補償が必要という、政府への縛りを嫌ったのではないかとみる向きもありました。
3月1日。政府は突然、幼稚園、保育園から大学に至るすべての園と学校を、向こう1か月程度休園休校にするよう要請を出します。
理由は元気な若い人たちが密集した空間で濃厚接触し、感染しても無症状のまま出歩いて感染を広げている懸念があり、それを防ぐため自宅待機して欲しいというものでした。若者はともかく子供を自宅に閉じ込めることによって、親たちにどんな負担がかかってくるか、共稼ぎを奨励してきた政府にしては、それへの対策や手当もないままの突然の要請に国民は戸惑いを隠せませんでした。しかも命令ではなくあくまでも自主性に任せる要請のため、混乱が広がるばかりでした。
3月5日。政府は各企業・事業所に対し社員の在宅勤務を奨励するよう要請し、国民には不要不急の外出は控えるようお願いすると発表します。
軽度の都市封鎖を狙った対策のようでしたが、今回も補償の伴う命令ではなく、あくまでも要請でした。国内で感染者が見つかってからすでに1か月が過ぎ、危機的状況のさなかにある諸外国ほどでないものの、感染者が増え続け医療崩壊も時間の問題とされる時期にしては、生ぬるいという声が巷にあふれていきます。
政府に強権を与えることにより、政府が暴走した時のことを憂いる意見がある一方、緊急を要するときに要請を繰り返して事態を長引かせることの危険を訴える声の方が大勢を占めるような状況になっていたのです。