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2019年4月13日 (土)

なぜパラオに行くことになったのか 4

 命からがら内地にたどり着いた母たちは、夫との約束に従い故郷の佐賀を目指したのですが、戻った実家の、彼女の仕送りで建てた家(と母は言っていました)に、母たちの居場所は無かったのです。父親はすでに再婚しており子だくさん。一番下の、母にとって腹違いの末弟は自分の長男とは6歳違い。十分事情の分からない末弟にとって姉とその子供たちは、食糧難の時代に突然転がり込んできた厄介者に映ったのでしょう。長男はその時6歳上の叔父に酷くいじめられたことを生涯忘れず、数十年ののち再会した時も心からの和解はできませんでした。
 そんな子供たちの事情を見ておれず、母は子供たちを連れて夫の実家を頼ることにしました。結婚後もほとんどパラオで過ごしていた母たちにとって、夫の故郷滋賀県は見知らぬ土地、よそ者でしたが姑は温かく迎えてくれたようです。
 しかし、その姑も終戦後すぐに亡くなり、消息の分からなかった夫は招集されたその年のうちに、パラオの激戦地ペリリュー島で玉砕していたことが分かります。遺骨どころか髪の毛1本も戻らず、ただ戦死公報で2階級特進が知らされただけでした。
 母たちの苦境はそれだけでは終わりませんでした。
 未亡人となった母に縁談が寄せられましたが、当時家督を継いでいた夫の兄が反対し、再婚するなら子供たちを置いていけと言われたそうです。再婚先で子供がいじめられることもあるかもしれないとの思いから、それに従い再婚を断ったところ、京都に所帯を持っていた義兄が、母のもとに来るたび子供たちの面倒は見るからと関係を迫ってきたそうです。そしてとうとう抗しきれず・・・その結果生まれたのが私ということです。

 産むかどうか迷った挙句、生まれてくる子供に罪はないと周囲から諭され産む決心をしたと、そう聞かされたのはまだ私が幼児の頃でした。物心つくかつかないかの頃からそんな事情を隠さず聞かされていたおかげで、判断が付く年頃になってもショックらしいものはありませんでした。物心の付いた幼児期、父が1か月に一度しか家に来ないのを心待ちし、来たときは喜びはしゃぎまわっていたそうです。ただ、泊っていって欲しいといくらせがんでも聞き入れてもらえなかったのは不満でしたが、そんな時母や兄がどんな思いでいたか、心中を推し量れる歳になってから当時を思うと複雑なものがあります。
 世間では子供の出自に問題があると考えるとき、その子に隠し通すか成人するまで話さない、ということもあるようです。しかし、自身の経験から言えば何かのきっかけで隠されていた事実を知ったときのショックが大きいだろうし、隠されたことで自分の存在が悪いことのように思うかもしれません。出自をたどりたいと思った時には関係者が亡くなっていたりして手遅れ、ということもあるでしょう。
 子どもの人生はその子のものであり、どう対処するか本人に任せればいい。そのためにも隠さず幼少期のうちに何でもないことのようにあけっぴろげに話してあげてほしいと思います。愛情をもって育てていれば幼少期に真相を告げても何も問題は起きないと私は思います。
 母は私がいずれ自分の出自を恨んで反抗し、非行に走るかもしれないと危惧したこともあったようですが、むしろ私が生まれるに至った事情で傷ついたはずの兄たちが、普通に兄弟として接してくれたことで、わたしは自分を否定すことなく成長できたのです。
 判断が付くようになってから思ったことは、わが父親はずいぶんひどい男だったんだなあと。しかし父親も高齢になってからの末子ということか私には甘かった。そんなことから父母を恨むようなことはありませんでした。何よりそういう事実がなければ今の自分は存在していないし、結局自身の存在をを肯定するほかないわけですよね。

 しかし、母や兄たちにとっては事情が違ったはず。母は我が子を守るため関係を持たざるを得なかったし、兄たち、とくに反抗期を迎えつつあった長兄にとって、自分たちの立場の弱さに付け込んだ伯父は、許し難い存在だったと想像に難くありません。相応の反発があったのかどうか、私が生まれてほどなく、中学1年で中退させられ、長男として一家を支えるという名目で(私の)父親の知り合いの京都の店に、住み込みの職人見習いとして出されました。
 私たちが京都に引っ越し再び長兄と一緒に住み始めたのは、それから4、5年過ぎてからだったと思います。兄たちは事情を知ったうえで私を弟として隔てなく接してくれたし、私もそれを当たり前として成長しましたが、長兄の心中では葛藤があり続けたのでしょう。長兄が結婚して所帯を持ち子供が生まれたころから、次第に母との溝が深まっていったようです。少年期のつらい体験や生真面目な性格が影響していたのかもしれません。

 ここで父についても少しふれておきたいと思います。
 父は小作農の長男として1896年に滋賀県で生まれ、子供のころに京都室町の呉服商に丁稚奉公に出ています。27歳で結婚し暖簾分けで独立し店を構えます。子供もでき商売は順調で一時は羽振りもよかったそうです。そのころ祇園の芸者さんとのあいだにも一女をもうけています。この異母姉と私は父の葬儀の時に1度会ったきりです。
 しかし羽振りの良かったのが却って仇になったのか、手を広げようとした矢先、得意先の倒産に会い連鎖倒産してしまいます。その後どういう経緯か聞いていませんが大手生保会社に就職し、商売をしていたころの顔の広さを武器に企業年金などの獲得で成績を上げ、売り上げ上位の常連だった時期もあったようです。70歳を過ぎても嘱託で仕事をしていましたが、さすがにその頃は小遣い稼ぎ程度の収入だったようです。
 父は1986年、90歳で亡くなりますがその数年前から痴ほうが徐々に始まっていました。この父の5歳年下の弟が母の夫となった人です。

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コメント

戦時中や戦後間も無い頃、親戚の家に身を寄せなければならなくて、非常に辛い経験をした・・・良く見聞する話ですね。「火垂るの墓」もそうだったし、初代・林家三平氏の妻・海老名香葉子さんも、自身の手記で記されていました。東京大空襲で家族6人を失った幼い彼女は、親戚を盥回しにされた。戦争が起こる前は「かよちゃん、かよちゃん。」と非常に可愛がってくれていた“おば”(伯母だったのか、叔母だったのかは忘れましたが。)、身を寄せると手の平を返した様に冷酷になり、「戦争とは、こうも人の心を変えるのか。」と悲しくなったと。自分の命を繋ぐだけでも汲々としていた時代ですから、其のおばさんの事を無条件に批判出来ないけれど・・・悲しい現実ですね。

悠々遊様の御母様達も御辛い思いをされた様ですが、其の一方で滋賀の御姑さんの様に優しく接してくれた人も居た。人も色々というのも又、現実。

「自分が悠々遊様の御母様の立場だったら、幼き頃の悠々遊に“事実”を伝えられただろうか?」というのを、此の記事を読んで考えてみました。子供は大好きなので、他人の子供でも可愛がれる自信が在るけれど、でも、事実を伝えた時にどういう反応(変化と言っても良いかも知れませんが)が起こるかという不安はどうしても在るし、自分としては「伝えるにしても、成人を迎えて以降。」となる様な気がします。悠々遊様が書かれている事も理解出来るし、難しいですね。

giants-55さん、こんにちは
コメントありがとうございます。
今回は少し脇道にそれて、私自身の事に多くを割いてしまいました。
育てるほうも育てられるほうも環境や条件によってさまざまで、私の例が必ずしも正解とは言えないかもしれませんね。
それでも敢えて言えば、育てる側が良かれと思っていたとしても、秘密を墓場まで持っていくことは自己満足ではないかと思うのです。
100%間違いなく隠し通せるならともかく、育てられた本人が秘密に気付き、自身のルーツを知りたいと願った時、その道を断たれ自分が何者か知る術が失われていたら、一生重荷を背負うのは子供自身ですから。

先日もテレビ番組で放送されていたことですが、終戦後の日本で恋に落ちた日本女性と白人の駐留軍兵士が、故郷で結婚するつもりで一緒に帰国するも、兵士の両親親族に猛反対され別の女性と結婚。
その時女性は妊娠しており生まれた男の子は施設へ預けられた。
成年してそのことを知り父親を訪ねたが既に他界しており、母親は日本に帰国していると知るもどこに暮らすのか知りようもなく時は流れ。
番組の企画としてその後の女性の足取りをたどり、日本で結婚して子供がいることまでつかみ、すでに老人となっていた男性が来日。父親違いの弟は突然の異父兄の出現に動揺し、母親は既に他界したことだけを告げて男性との面会を拒否。
結局、男性は自分が母親に愛されていたのかどうかも確かめられないまま、涙の帰国となりました。
これを見ていた私も胸がつぶれる思いでした。

悠々遊様が触れられているTV番組、自分も見ていました。御嬢さんも一緒に来日され、滂沱する父親を抱き締めていた姿が非常に印象に残りました。母親が存命だったら、弟の対応は違っていたいたかも知れないし、又母親が生きている事を知れたら、彼もあんなに悲しい思いをしなかったでしょうね。「自分は捨てられたのかも。」という思いを持ち続けていた彼ですが、施設に残る記録からは、必ずしもそうでは無かったという事が窺い知れたのが、自分にとっては救いでした。

giants-55さんも見ておられましたか。
こういう話や、実の親の情報を隠したまま子供を育てる話を耳にするたび、子供は「親」のペットじゃないのにと腹が立ってきます。
いくら愛情をもって育てたところで、肝心なところを隠したままでは本当の愛情ではないと思うのです。
ちゃんと話してもらって本人が苦しむことになっても、愛情をもって育てられていれば、それが実の親か育ての親か、また別の事情があってのことかはともかく、いずれ乗り越えられるはず。
その事情を知るのが早ければ早いほど、心の傷は軽くて済むのにと思ってしまいます。
私はそう思うのですが、人それぞれ、そう思わない人も大勢いるのでしょうね。

悠々遊さん、こんばんは^^
厳しい時代だったのですね。。
ただ、時代背景や事情は違えども、今の時代でも同じように複雑な家庭事情をもつ人は多いですし、私の友人の中にも沢山います^^
どう抗っても過去の事実が変わることはありませんが、大事なのはやはりその後の周りの人間関係なのかなぁと思います。
私は小さい頃からそういったことをあまり気にしない性格だったので、友人の家庭環境を聞いても特に差別はしませんでしたが、逆に同情することもありませんでした。
ただ彼(彼女)はそういう環境の元で育っただけであって、他人と比較すること自体に何の意味もないと思うのが普通だったので、小中学生くらいの年頃で特有の差別意識的なイジメなどには幼いながら酷く嫌悪感を感じたものでした。
多感な時期に周りから無神経にそういったことを責められると、自分が不幸だと思い込んだり捻くれたりしてしまうことも多いので、悠々遊さんの話を聞いていて、やはり周りの対応というか接し方次第で救われることも多いのかなと思いました^^

あーちゃーさん、おはようございます
コメントありがとうございます。
終戦直後は世間の価値観がごろりと変わるなか、混乱やそれに乗じた行為が蔓延していた時代だったのですね。
戦後の混乱期ほどでないにしても、今の時代も価値観の混乱期のような気がしていますが、どの時代も一番の犠牲者は子供たちだという気がします。
今回は自分のことに多くを割いてしまいましたが、子供の出自が「普通」でないと思うとき、それを隠そうとする社会に一言いいたい思いがありまして(苦笑)。

おっしゃる通り、取り巻く周囲の対応次第でいじめや差別はなくせると思います。
例えば、小学校に障害児学級があると、普通学級の児童は障害児を特別な目で見るようになり、やがて差別につながる気がしますが、障害児を普通学級に迎えているところでは、少しハンディではあるが同じ仲間としてむしろ守ってあげる、という意識が自然と芽生えるそうです。
こういう取り組みは最初親たちの方に抵抗感があって、なかなか始めるのが難しいようですが、固定観念に固められた大人より、子供たちの方がより柔軟に対応できるということですね。
私も周囲の人たちに恵まれていたと、大人になってよくわかりました。

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