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2019年4月12日 (金)

なぜパラオに行くことになったのか 3

(最初にお断り) 掲載の写真は個人的なものなので転載、コピー保存など無断でのご使用は固くお断りします。

 やがて年頃になった母は、叔父の紹介で滋賀県出身の男性と見合いをし、1934年に結婚します。夫となった男性は農家の次男坊で母より先にパラオに出稼ぎに来て、1931年に食料品を主に扱う商店を開業していました。一回りほども年が違う相手に最初は戸惑い、私には叔父さんに騙されたと言いながらも、笑っていたところを見ると、決して意に染まぬ相手ではなかったのでしょう。
 パラオ人を数名雇いそれなりに繁盛していたそうで、母と結婚後にはコロールの繁華街の一角に小さいながら店を移しています。店ではかき氷も売っていたそうで南国でかき氷など知らない現地人には珍しく、食べては頭が痛くなる様子を、母が面白そうに話していたのを記憶しています。当時はカツオの遠洋漁業が盛んでコロールにも基地があり、冷凍保存のための製氷工場があって、そこで氷を仕入れていたのでしょう。
 結婚翌年には長男が生まれ、長女、次男、三男も生まれますが、長女と次男は生後1年足らずで病気で失いました。三男は健康優良乳幼児として第1回表彰を受け、その表彰状は経年劣化で黄ばんではいますが今も三男の手元にあります。表彰式当日の集合写真も残っていて、当時のコロールの日本人社会の庶民の様子を知る貴重な資料ではないかと思います。
 親の借金のためパラオに出稼ぎに渡り、そこで青春を送り結婚、子供にも恵まれ商売も安定・・・そんな平穏な日々はしかし、太平洋戦争によって失われました。1944年、当時43歳だった夫は現地召集され、婦女子と老人は内地へ引き上げるよう勧告されます。終戦の1年前すでに戦況は悪化し、無事に日本まで帰れる保証はありません。帰国を断念し戦火の本島を逃げ回り、餓死した移民も大勢いたようです。
 30歳の母は8歳の長男、2歳の三男を連れ、パラオで築いた財産のほとんどを残したまま引き揚げ船に乗ることになります。船団は4月に輸送船4隻、護衛艦2隻でコロールを出発しますが、途中で米軍の潜水艦に見つかり魚雷攻撃を受け1隻が沈没。
その時の様子を母は、「波のうねりのおかげで乗った船の下を魚雷がすり抜け、横にいた別の輸送船に命中した」。魚雷命中の衝撃で乗った船も大きく揺れ、片手で長男の手を握り三男を抱えていた母は思わず甲板に両ひざから崩れ強打したといいます。それが遠因になったのか最晩年にはリウマチで両ひざの痛みに悩まされていました。またその時の様子では、護衛艦から潜水艦めがけての反撃はまるで花火を見るようだったといっていました。
 戦闘中にもかかわらず民間人が甲板にいたというのを不審に思うと、万一船が沈むようなときはすぐに海に飛び込めるようにせよと言われていたからと。経験した者でないとわからないものだと思ったものです。
 残る船団はサイパンかどこかに避難し、あらためて日本に向かったとのことでしたが、あとで調べてみると一旦パラオに戻っていたようです。船団はその後無事に横浜に入港。そこから母たちは陸路故郷の佐賀を目指しました。
 余談ですが、この時の引揚げでは別の輸送船に、タレントの今田耕司さんのお母様も乗っておられたとの事。3年前にNHKのファミリー・ヒストリーで再放送されたものが、YouTubeの動画にアップされていました。
https://www.youtube.com/watch?v=VgS-TkwDtoE
https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/23759/955192/
 母から聞いていた引揚げ船での話の内容と、放送の内容が一部異なっているのは、おそらく私の聞き違い思い違いによるものなのでしょう。当時はメモも取らず聞き流していましたから。今にして思えば悔やまれますが、母が亡くなった今では聞きなおすこともできません。
Img052
商売の関係からか結婚式はパラオで挙げています
Img059
コロールの繁華街の一角にあったという店
Img066
1944年に写されたもの。
夫は招集され母と子供は引揚げという状況で撮られたこの写真が、家族揃っての最後の1枚になります。
夫の表情からは希望の見えない戦争に駆り出されることへの諦めが滲んでいるよういるようにも見えます。

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コメント

以前にも書いたと思いますが、母の従兄弟が定年を迎えた後、「係累の来し方を知りたい。」と、自身で様々な情報を集めた上、(母方に関する)家系図を作りました。其れを我が家にも送ってくれたのですが、母自身も知らなかった事実が幾つか在り、其の1つが祖父には亡くなった兄弟が3人も居た事でした。今の様に衛生環境が良く無く、又、医療制度も整っていない時代、病気や栄養失調等で幼くして亡くなった様です。今回の記事で、そんな事を思い出しました。

藤原ていさんの自伝小説「流れる星は生きている」等で、引き上げ時の凄惨さは理解していましたが、御母様達の様に“紙一重の差”で命が救われたケース、結構多かった様ですね。「戦闘中にも拘わらず、民間人が甲板に居た。」という理由も初めて知り、勉強になりました。

父を早く亡くした事も在り、彼から戦時中~戦後の話を聞く機会は余り在りませんでした。又、祖父母もそういった話を積極的にするタイプでは無かったので(前の記事のコメント欄で悠々遊がちらっと触れておられた様に、苦しかった時代に付いては触れられたくないという思いが在ったのかも知れません。)、今になって「もっと聞いておけば良かった。」という思いが強く在ります。そういう思いが強いからこそ、今回の一連の記事は非常に有難いです。

今回の一連の記事、個人的にもっと多くの方々に知って貰いたいという思いが在り、自ブログで紹介しても宜しいでしょうか?勿論、「こういう記事が在ります。」という紹介だけで、写真等は一切転載しませんので。

giants-55さん、こんにちは
コメントありがとうございます。
私たちより上の世代、戦前戦中そして戦後を生き抜いた人たちは、平和な時代に生まれた私たちよりずっとたくましいですね。
そういう人たちの苦労と努力があって今の私たちの生活があると思うと、年寄りだからと厄介者扱いする今の風潮はどうなのかなあと。
老人を狙った詐欺の横行など腹立たしい限りです。
 
giants-55さんのブログでも紹介していただけるとのこと、願ってもないことです。
よろしくお願いいたします。

悠々遊さん、こんばんは(*゚ー゚)
記事、有難く読ませて頂きました^^
歴史上の出来事や名の残る軍人、政府関係者のエピソードなどは資料も多く残っていますが、1民間人がどんな暮らしをしていたのか、そこにどんな時代背景があったのかは、まだまだ知られていないし記録にもなっていないことがたくさんあるんだろうな・・・と改めて思いました^^
今の社会では事前情報や危険予測、安全重視、リスク管理などが進んでいるため危険ギリギリの行動というのは少なくなっているので、甲板上での話など、とても臨場感があり、当時がどれほど緊張感のある時代だったのか、少なからず垣間見ることができたように思います^^
記事掲載ありがとうございます^^

あーちゃーさん、こんばんは
コメントありがとうございます。
今回のことで当時のパラオに関する本や資料を読む機会を得たのですが、当時のパラオも階級社会だったようです。
一番頂点にいたのが公務員、いわゆるお役人たちで同じ日本人でも民間人とはあまり付き合いがなく、エリート然とした態度で暮らしていたとのこと。
次が一般の日本人移民、沖縄からの出稼ぎ、朝鮮人、現地パラオ人という順だったようです。
階級が下がるにつれ当時の暮らしに関する資料は少なくなるのでしょうね。
母の場合はたまたま叔父が写真家だったので多くの写真が残ったのでしょう。

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