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2019年4月14日 (日)

なぜパラオへ行くことになったのか 5

 前回は私のことで多くの字数を割いてしまいました。また、前回の文中、大きな間違いをしていることに気が付いたので、ここで訂正します。
 母たちが故郷の佐賀に戻ったころには、父親やその後妻である継母は既に他界しており、沢山いた異母弟・妹たちの誰かが家を継いでいました。父親がまだ健在だったら、自分の仕送りで建てたと思っている母は、家の権利を主張することもできたかもしれません。しかし相手が兄弟たちでは多勢に無勢、居座ることもままならなかったのだと思います。厄介者扱いというのが全体にあり、それを直接行動で示したのが前述の末弟だったに過ぎないと想像できます。
閑話休題。

 私が中学を卒業するころには、ようやく生活も安定するようになっていましたが、まだまだ経済的余裕はありませんでした。もともと成績が悪く頭が良くないのを自覚していた私には高校へ進学する気はなく、中学卒業後に就職するつもりでいましたが、親しくしていた級友が定時制高校を受験すると聞き、付き合うつもりで受験したところ何かの間違いで合格してしまい、昼間は会社で仕事、夕方から高校生という生活が始まりました。なにがしかの生活費を家に入れ、学費ももちろん給料から賄うという疑似自立のスタートでした。

 母と末弟である叔父が再会を果たしたのは、私が就職して初めてのボーナスで母の里帰りを後押ししてから1年ほど後のことでした。故郷にもう実家はなく異母弟妹たちはすでに亡くなっているか消息不明の状況。親せきを訪ね、恩人山下先生のお宅を訪ねるだけの旅でしたが、その親せきからの連絡で叔父の方から会いたいと連絡が入ったとき、母も長兄も警戒心で迷っていました。兄には子供の時にいじめられた記憶があり、母は母で、前年に親せきを訪ねたとき、あまり芳しい話を聞いていなかったのです。
 しかし、散り散りになった兄弟で存命で連絡が付いたのは叔父だけ。過去に嫌な思い出があってもそれを乗り越える姉弟の情が勝ったのでしょう。いざ会ってみると、叔父もその後苦労したのでしょうかすっかり丸くなっており、終戦前後に別れてからの互いの苦労話が尽きないようでした。
 叔父は父親の気質を受け継いでいたのか、若いころに旅芸人になり芸人仲間の女性と結婚していました。二枚目役者としてそれなりの人気はあったそうです。しかし年を経ていつまでも不安定な旅役者でもなかろうと、当時贔屓にしてくれていたやくざの親分の紹介で、再会したころには製鉄工場の工員として働くようになっていました。

 母がよく自分の生い立ちのことやパラオ時代のことを話すのに比べ、まだ幼児だった次兄はともかく、すでに物心がついていた長兄はパラオ時代のこと、戦後の苦労話など一切しませんでした。触れたくない澱として心の底に淀んでいたのだろうと思います。その長兄は若いころの苦労が祟ったのか、母に先立つこと3年、2001年に66歳の誕生日を迎えて数日後に病没しました。同じ年の4か月前に長兄が嫌っていた叔父が脳卒中で亡くなっているのは、偶然とはいえ因縁めいたものを思わずにいられません。あの世では和解し仲良くしてくれていると祈るのみです。
 それから3年、母も波乱に満ちた生涯を2度の脳梗塞の末(戸籍上)90歳で終えたのでした。母の遺骨は婚家の宗派であるお寺に納骨しましたが、少しばかり残した遺灰は母が青春を過ごし、結婚し、一番幸せだったであろうパラオに、そして夫が眠るペリリュー島に少しでも近いところに、と南紀串本の海に散骨をしてきました。

 さらに14年を経た昨年、新聞記事になったことから縁あって、母の持ち帰ったパラオ時代の写真を、戦前のパラオの庶民生活を知る貴重な資料として、パラオの国立博物館に寄贈しませんか、と勧めてくださる方がありました。話が進むなか、今度は写真に写っていたパラオ人の親族探しをしてくださった、母の故郷のNPO法人の方のお誘いでコロールを訪れることになり、年明けの今年正月に、件の写真を直接博物館側に手渡し、かの地で母たちの暮らしがあった場所探し、縁のあった人の親族との面会を目的とする旅がはじまった次第。

 生前、昔の話をするたび懐かしがり、テレビ等でパラオが取り上げられ、ペリリュー島での玉砕が特集されるたび、画面を食い入るように眺めていた母は、戦時中の半強制的な引揚げ以来、第二の故郷ともいうべきパラオへの再訪を望んでいましたが、初めは経済的困窮から、年老いてからは体力の衰えと飛行機は嫌だとの理由から、とうとう叶いませんでした。
 本来なら唯一存命の三男である次兄が生まれ故郷に行くべきなのですが、何分蓄えのない年金暮らしのうえ最近体調が思わしくないので、今回は一連のきっかけを作ってくれた私にすべて任せるというのです。兄の分まで旅費を負担できればよかったのですが、自分の葬儀費用にと残している蓄えから、一人分をねん出するのが精いっぱいの身では、かっこいい真似はできませんでした。
 領土拡大を目論んだ挙句、多くの犠牲者を出し、それまでの領土すら失い敗戦した先の大戦。それさえなければ母や兄たちは南国の地で豊かに暮らしていただろうし、私が生まれてくることはなかった。そんな私が家族を代表するような形でかの地を訪れる。何とも言えない気持ちを抱えての旅になりました。

Photo_7
母との再会を果たした後、叔父からもらった若いころの名刺。
「美剣士」の肩書に叔父の子である従弟が笑っていました。
Photo_8
母の納骨から半年過ぎたころ、嫁さんと子供を連れて串本に。
この海から潮の流れに乗ってパラオに届けと願っての散骨でした。

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コメント

「ファミリーヒストリー」を見ていて良く思うのは、偶然の出来事や偶然の出会いが、人の人生を大きく変えてしまう事が在るという事。「其の出来事に遭遇しなかったら、又、其の人に出会わなかったら、全く別の道を進み、今のXXは存在しなかった。」というケースが何と多い事か。

「ファミリーヒストリー」の中で取り上げられた方では無いのですが、「夜のプラットホーム」等の名曲を持つ歌手・二葉あき子さん(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%91%89%E3%81%82%E3%81%8D%E5%AD%90#主な作品)は、「1945年8月6日、帰郷の為、広島から芸備線の汽車に乗り、汽車がトンネルに入っている際に原子爆弾が投下され、汽車がトンネルを出た所で、きのこ雲と落下傘を見た。」そうです。被曝はしたものの、トンネル内に居た事から直接的な被害は無かったとか。若し、トンネルの外だったら・・・彼女の歌う「夜のプラットホーム」は存在しなかったかも知れない。

戦争が起こらず、御母様達が南の国でずっと生活しておられたら、仰る様に悠々遊様は此の世に誕生していなかっただろうし、そう考えると運命の不思議さを感じるし、複雑な思いになりますね。

giants-55さん、おはようございます
コメントありがとうございます。
そうですね、人生だけに限らず大事な岐路で「もしも」が起きていたら、その後の展開が大きく変わっていたでしょうね。
でも実際には「もしも」は起こらず今この現実がある。
人間には「もしも」を想像する力があるからこそ、現実を受け入れることに複雑な感情が付きまとうのでしょうね。

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