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2019年4月11日 (木)

なぜパラオに行くことになったのか 2

(最初にお断り) 掲載の写真は新聞記事にも使われたものですが、個人的なものなので転載、コピー保存など無断でのご使用は固くお断りします。

 さて、1929年、母は16歳のころに、先にパラオで写真家として生計を立てていた義理の叔父を頼って、佐賀県から単身パラオに渡りました。いわゆる出稼ぎです。今は飛行機で最短4時間ほどで直行できるパラオですが、当時は船旅で5日はかかったそうです。
 戸籍謄本によると母の出生地は福岡県、生年は大正2年(1913)になっていますが、本人は大正元年に佐賀県で生まれたと言い、親の都合で出生届が1年遅らされたと言っていました。今と違って生後間もなく死亡する乳幼児が多かった時代では、そういうことも珍しくはなかったのでしょうか。
 父親は当時講談師をしていたそうで、収入が安定しないうえ大酒のみだったため借金が相当あり、長女として生まれた母は小学校を1年で中退させられ子守り奉公に出されたと言います。
 母親は母が5歳の時に亡くなっていますから、母親の死後1年ほどで親元を出されたことになります。NHK朝ドラ「おしん」を想起させる話ですが、奉公先ではかわいがられたようです。それは逆境にあっても決して下を向かない母の性格が関係していたのかもしれません。勝気というわけでもなく能天気で天真爛漫というわけでもない。苦労は苦労として愚痴ることがあっても、いったん口から出たらそれでおしまい、嫌なことはいつまでもぐずぐずと引きずらない切り替えの早さというべきか。
 数年ののち年季が明けて実家に戻る途中、駅で見知らぬ男性から声を掛けられ危うく連れ去られるところを、異変に気付いた女学生の機転に助けられ事なきを得、そのひとの元にしばらく身を寄せることになりました。恩人の女学生は耶蘇教(いわゆるキリスト教)関係者の家庭の方で母は晩年まで「山下先生」と呼んで慕っていました。
 しばらくはお手伝いとして働いていたあと16歳のころ、父親の妹の夫である義理の叔父がパラオで商売をしていることから、そこを頼って出稼ぎに行くことを決心しました。当時は日本で働くよりパラオの出稼ぎの方が収入が多く、例えば大学出の初任給が国内では50円だったころ、パラオでは75円だったそうです。それだけ当時のパラオは活況で豊かだったということです。
 しかしいくら現地に親戚がいるとはいえ、16歳の少女が単身で遥か南方の島に出稼ぎに出るとは、それなりの覚悟を持っての事だったでしょう。
 パラオでは病院で産婆さん(助産師)の手伝いとして働き、収入のうち少なからずの金を親元に仕送りしたそうで、その額は合計すると小さな家なら1軒建つほどだったと言っていました。産婆さんの手伝いというのも、学歴は無いものの子供のころから子守りをはじめ、他人の中で働き続けてきたことが役に立っていたのでしょうか。
 17、8から20歳前後の青春真っ盛りのこのころの写真が多く残っています。写真家であった叔父が姪をモデルに写真を撮っていた節があります。そんな中の1枚、パラオ人の少女と一緒に写った写真がありますが、別にその少女だけを撮った写真の裏には、「パラオ美人花子嬢」と書かれており、のちにパラオで当時行われた美人コンテストで優勝した女性だったことが分かりました。彼女は戦後、病気療養で滞在先のグァムで29歳で亡くなったとパラオ訪問の時に知りました。美人薄命だったんですね。
Img006__1
母と花子さん
Img004__1
日本人移民の若者やパラオの若者と一緒に写っているのはこの1枚だけ

 

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コメント

御母様が歩んで来られた道程、今では考えられない様な厳しさですね。おしん、又はアメリカに於ける高橋是清氏(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85#経歴)の逸話を思い出し、こんな境遇でも負ける事無く、寧ろ其れを発条にして頑張って来られた事に敬服してしまいました。

美人コンテストで優勝した少女の其の後も含め、戦前から戦後に掛けての苛烈な世界情勢が窺い知れるし、今回も夢中になって読んでしまいました。

giants-55さん、おはようございます
コメントありがとうございます。
母の生まれた大正初期から昭和の初めごろは、一部特権階級以外は総じて貧しい暮らしが当たり前だったのかもしれません。
そのため日本政府も海外に豊かさを求めて移民を奨励し、一方で領土拡張に向け戦争に突き進んでいったのでしょうね。
母のような例はほかにもたくさんあるのでしょうが、私がこの記事を書くにあたって迷ったように、他人に知られたくない・触れられたくない「負」と感じて伏せられていることが多いのかもしれません。
しかしそういった底辺の苦労が知られないまま今日の繁栄の影で失われていくことに、なにがしかの違和感があって、書くことにした次第です。

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