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2019年4月

2019年4月26日 (金)

今日の太陽 2019/4/26

早朝雨からゆっくり回復。
12時過ぎに晴れ間が出来て13時過ぎの撮影となりました。
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目視では黒点はおろかプロミネンスも何もない状態のお天道さん。
画像処理でやっと11時方向に淡いもの発見。
他にも小さなものがあることが分かりますが、白色光での撮影はしませんでした。

2019年4月24日 (水)

そして遠くて近い国パラオへ 最終

 食事を終わってホテルに戻ると、Tさんが10月のパラオ行で見つけてくださった、残る2組の家族と会えるよう、M君に頼んで電話連絡を取ってくれます。しかし、留守だったり電話に出た相手の要領が得なかったりで、なかなか連絡が付かないまま時間だけが過ぎていきます。
 この時点で、私としては母との接点がはっきりしていた花子さんの家族に会えただけで満足していたし、何よりウエキ氏から母たちの生活の一端が、間接的ながらも知れたことが何よりの収穫だったので、それでもう十分との気持ちでした。しかし消極的な私に代わってTさんはこのまま諦めるのはもったいないと、ぐいぐい背中を押してくれるのです。
 すっかり暗くなった18時前、ようやく片方の家族と連絡が付きました。写真では草原に一人ぽつんと立つ男性が写っているだけで、顔もはっきりわからないので、10月にTさんに写真を託した時もその縁者を探すのは無理だろうと思っていたのですが、こちらに来て写真を見せると案外すぐに誰かというのが分かったそうです。男性はすでに亡くなっていましたが、彼の姪のレイチェル・テルコ・ベチェスラークさんがコロールで健在だったのです。
 遅い時間なので押し掛けるのもどうかと思ったのですが、先方がウエルカムというので、急いでタクシーでその方の家を訪問。リビングでテルコさんとひと時の歓談を持つ事が出来ました。

 ホテルに戻り、残る一組の家族に再び電話攻勢。あとで思うに、ひょっとしてTさんが私に一番合わせたかったのがこの家族だったのかもしれません。
 少し微笑んでいるようにも見えるワンピース姿の少女が写った写真。母との接点は分かりません。でもパラオでこの写真を見せたら、誰もが知っているという有名人の少女時代のものでした。私は今回の一連の流れで知ったばかりでしたが、中島敦という作家が戦前のパラオに一時期滞在した時知り合い、短編「マリヤン」のモデルとしたマリア・ギボンさんだというのです。
 中島敦が滞在した時期とその時のマリア・ギボンさんの年齢、母の年齢を重ね合わせると、ひょっとして母との接点というより、写真家の叔父のほうに接点があって写真を撮っていたものを母が譲り受けていた、とみるのが正解のように今は思えるのですが。
 21時半を過ぎたころ、マリアさんの娘でパラオで2人しかいないという女大酋長グロリア・ギボン・サリーさんとようやく連絡が付きました。酋長という言葉からは一般的に未開の民族の男性権力者というイメージがあると思うのですが、母系社会のパラオでは尊敬を集める王族階級の女性という意味合いがあるらしく、現にグロリア・サリーさんはパラオでは「クイーン」とも呼ばれる人物だそうです。
 会いに行く手はずで家までの道順を聞いていると、ホテルまで迎えを寄越すとのこと。外に出てしばらく待っていると、四駆の大きな車が入ってきて、運転手兼秘書?の女性とともに降りてきたのが当のグロリア・サリーさんでした。夜の遅い時間に向こうから出向いてくれたことにまず感謝。Tさんとの再会のあいさつの後、私が紹介され、ロビーで写真を見てもらいながら歓談。
 パラオ人の写真で、まだ所在が分からないものについて、何か手掛かりをご存知ないかと尋ねてみると、一人については意外にもすぐに、この人はKiyarii Delutaochさん 子どものCarl Delutaochさんが博物館に至る道のすぐ近くに住んでいる、とすらすらと答えてくれました。もう一人については、多分この人で間違いないと名前は教えてもらえましたが、消息まではご存知ないようです。話しぶりから何か曰くありそうな雰囲気を感じて、それ以上突っ込んで聞くことはできません。1時間ほども話していたでしょうか、名残惜しく別れ帰って行かれました。

 今回のパラオへの旅で期待していた事は100%、いや200%満たされた気分でした。もっと時間と経済的余裕ががあれば、母の夫、兄たちの父親が戦死したペリリュー島にも行きたかったし、最終日の最後に判明した人物の家族とも会う事が出来たかもしれません。しかし、それは現時点では果たせぬこと。写真に写る日本人の手掛かりはまだ誰一人ありません。
 帰国に向けて荷物をまとめ、しばしの仮眠をとることにしました。
 ふと目が覚めると日付は1月10日。出発時間と決めていた午前1時半になっています。慌てて部屋を出るとTさんたちはすでにロビーで待っていて、予約してあるタクシーも到着していました。3人とも私を空港まで見送りに来てくださるとのこと。
 外は雨です。タクシーで一路コロール空港へ。
 中国や韓国からの団体さんでいっぱいの受付カウンターを横目に、スムーズに手続きを終え、Tさん、Yさん、M君、それに初日からずっと世話になったタクシー運転手のおじさん(ごめん、名前をしっかり覚えてなかった)の見送りに手を振って、搭乗ゲートへ。
 4時10分の予定をやや遅れて離陸。予定通り9時仁川到着。空港内のフードコートで昼食をとり、13時10分仁川出発。15時無事関空に到着。何事もなく手続きを終え入国。南海電車、JR大和路快速、JRみやこ路快速を乗り継いで、18時前に帰宅。
 こうして私の5泊6日のパラオの旅は終わりました。

 かつて多くの日本人移民が暮らし、やがて戦場となった日本から南に約3000kmの小さな島国パラオは、私にとって遠くて近い国です。日本が統治した時代を知る人はどんどん減っています。かつて日本人が建てた家屋はほとんど残っていません。パラオ語とともに公用語だった日本語も今や英語に変わっています。
 しかし、かつての公用語で今の日本では死語になっている言葉が、パラオ語として今も使われています。例えば日本ではブラジャーと言っている女性の下着が、パラオではチチバンドとして通じるのだそうです。大正生まれの母が使っていた言葉です。
 パラオでは現在外国人が単独で土地を取得したり商売することは禁じられています。コロールでは中国資本がどんどん入り、99年租借で土地を得てパラオの富裕層と共同でホテルやレストラン経営を行い、そのあおりで賃貸料が高騰して中小規模の日本人経営者は苦戦しているそうです。旅行客も中華系や韓国人の方が日本人よりも多いそうです。日本人旅行客が減ったことで日本からの直行便は今はもうありません。
 しかし、今もパラオの人たちにとって日本は特別な国、日本人は敬愛を持って迎えられる存在のようです。日本人ももう少しパラオに目を向けてもいいのではないでしょうか。そしてTさんたちが行っている、バラマキではなく彼らの自立のための地道な支援活動が大きな実を結び、この良好な関係がいつまでも続いてほしいと願うばかりです。

 最後に。
 新聞記事にしてくださったことで今回の一連のきっかけを作って頂き、さらに多くの貴重な情報を教えて頂いた京都新聞南部支社長の大橋様。
 ベラウ国立博物館に写真を寄贈する橋渡しをしていただいた台湾のパラオ民俗研究者陳様と京都大学職員内堀様。
 パラオでの関係者探しに尽力頂き、旅の手配から現地で背中を押し続けるなど何から何までお世話になったNPO法人愛未来の理事長竹下様。揺れ動く気持ちに優しく寄り添って下さった山崎様。通訳を引き受けて遠い昔の話に付き合ってくれた佐賀大学の松本君。
 旅の中で知り合いお世話になったたくさんの方たち。
 そして、一庶民のファミリー・ヒストリーの長い駄文に付き合っていただいた皆さんに感謝。ありがとうございました。

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テルコさんの家にお邪魔して
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グロリア・サリーさんと記念の1枚

2019年4月23日 (火)

そして遠くて近い国パラオへ 8

 1月9日。この日が実質的にパラオで過ごす最終日になります。ここまでずっと上天気だったのが前日の夜から下り坂で朝になると雨。幸い活動を始める頃になると小雨に変わりやがてそれも止みましたが。
 昨夜のうちに花子さんの親族にアポを取って、この日の10時に会う約束になりました。指定された繁華街の中心に建つパレイシアホテルに先に着いて待つことしばし。現れたのは初日にスーパーで会った孫夫婦に女性がもう一人。
 花子さん(パラオ名エビルトリック・スマング)の長女ラファエラさんの次男で、白人の血が入っていると思われる顔立ちのグレン・シードさん。その奥さんが日本人女性の越子さん。初めてお会いした女性はうっかり名前を聞き忘れたか聞き漏らしてしまって手帳にメモ書きがありませんが、この方が花子さんの四女イサベラさんの娘さん。
 花子さんは前述したように戦後グアムで療養中29歳で亡くなっていますが、その時イサベラさんは5歳。母親の顔は覚えているが写真は持っていなくて、昨年10月にTさんがパラオに来たとき渡してもらった写真を見て、自分の若いころに似ているととても喜んでくださったそうです。しかし、10月にTさんが会ったとき病気から回復途上で退院したばかりだったというイサベラさんは、その後再び悪化して12月に亡くなられたとの事。亡くなる前に写真を渡す事が出来て良かった。
 歓談の中で知ったことですが、花子さんの母親メリーさんも女酋長だったそうで、ドイツ人と結婚しましたが第1次世界大戦でドイツが敗北すると、夫はメリーさんを置いて帰国してしまいます。花子さんがこのドイツ人との間の子どもだったかどうか分かりません。ここにも戦争に翻弄された人たちの歴史がありました。
 花子さんの子どもたちの時代になって、ファミリーが台湾資本との共同経営に乗り出したのが、面会に使っているこのホテルとのことです。ホテルの地階の一角に、夫の去った後の海を見続けるメリーの姿を描いた壁画があるとの事で、案内してもらいました。

 花子さんの孫ファミリーに会った後、午前中にもう一か所、大統領のオフィスを表敬訪問する手はずになっていました。タクシーを使って約束の時間の30分ほど前に到着。大統領との会談ということで頼んでおいた本職の通訳の女性も5分前には合流しましたが、実際に大統領の待つ部屋に通されたのはそれからさらに20分は過ぎていたと思います。
 今回のパラオ訪問の一件を写真を見てもらいながらかいつまんで説明。博物館に写真のオリジナルを寄贈した事については感謝の言葉をかけられましたが、時間が押していたのか、話をしたのは20分そこそこ。最後に記念写真を撮って、「ハイ次の組」といった印象でした。
 こういう経験が初めての私には新鮮で貴重な体験でしたが、Tさんにとっては不満が残ることになってしまいました。というのも、支援活動を通じて大統領とは旧知の仲のTさんには、この会談の席で、支援活動を続けていくうえでどうしても頼みたい事があったのに、それを言い出す前に私の件だけで話を打ち切られてしまったのです。私にとっても少し後味の悪い結末でした。ホテルに戻るタクシーの中は、Tさんの心情を思いみんな無口の重苦しい雰囲気です。
 しかし、それも昼を過ぎたころまでの事。これまで様々な経験を乗り越えてきたバイタリティー溢れるTさんは、いつまでも後ろを見いていません。15時にTさんの今回の目的である、農業支援の打ち合わせでエサール州の知事と面会があり、同時にM君の3か月にわたる農業研修とホームスティの最終確認とお願いなど。このエサール州がTさんたちの農業支援に応じて自立活動に積極的なのだそうです。
 私も部外者ながら同席していると、話が一段落したところで私の件がTさんから紹介され、話の中で母たち家族が商店をやっていた事に触れると、州知事の口から「ショウバイニン」という言葉が飛び出しびっくり。日本の統治時代の25年ほどの間に3000語近い日本語がパラオ語として定着したという事だけは、事前に調べて知っていましたが、「ショウバイニン」もその一つだったとはTさんも初めて知った様子。
 
 この日の夕食は私のリクエストで、再びカープレストランですることになりました。店に着いてみると閉まっています。定休日を調べていなかったので、ひょっとして・・・と思っていたら、午後の開店前に着いただけでした。前とは違う料理をいくつか注文しましたが、やはりボリュームがすごい。この時はビールも頼み、酒に弱い私は1杯で出来上がってしまい、明日早朝には私一人帰国することになるので、軽口のつもりで「皆さんとの最後の晩餐」と言ったら3人から叱られてしまいました。
 
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真ん中が花子さんの四女イサベラさんの娘さん 後ろが長女ラファエラさんの息子グレンさん
 
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パラオ大統領と記念撮影
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エサール州知事と記念撮影

2019年4月22日 (月)

今日の太陽 2019/4/22

薄雲の晴れからゆっくりと快晴へ。
若干白っぽいと思ったけれど、もう15時前、撮っといたほうがよさそう。
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11時(12時?)方向のプロミネンスは今日もしっかり出ています。
3時、5時方向にも薄いけれど目立つものがあり収穫です。
今日も白色光は期待薄で望遠鏡は出しません。

そして遠くて近い国パラオへ 7

 1月8日。
 パラオに着いてからここまで、ほとんどの時間を私に付き合ってくださっていたTさんやM君にも、こちらでするべき事は当然あり、この日の午前中は先方とアポをとったり打合わせの電話に取り掛かっておられます。それとなく聞いていると、日本とパラオでは時間や約束といった概念が少しずれているようです。日本では約束や時間は優先して守るべき基本ですが、どうもこちらでは時間がゆっくり流れている様子。約束も書面ではっきりと書いておかない限り、日常生活の時間の流れの中で次第に優先順位が失われていくようです。どちらが良い悪いではなく、書面で交わした約束以外はおおらかに捉えておくのがこちらの流儀なのでしょう。

 昼近くになって昼食の調達にYANO惣菜店に行くことになりました。私だけその手前で降してもらい、昨日ウエキ氏から聞いた高橋商店のあったあたりの写真を撮ることに。
 目印となるギフトショップ「ルー」は、実はこちらに着いた当日に一度訪れていた店でした。日本を発つ数日前にメールを頂いていたパラオ諸島戦史研究会のYさんから、パラオで生活している二人の日本人女性を紹介され、戦前の日本人の生活に関心がある人たちなので、向うに行ったらぜひ会ってみてくださいと勧められていたのです。その一人が「ルー」で仕事をしているTさんでした。店を訪れた際母の記事が載った新聞のコピーや写真を見せ、髙橋商店の売り物の一つにかき氷があったように、この店でもかき氷をやっていたので、それを注文して食べたのです。75年以上の時を隔てて同じ場所でのかき氷。これも何かの縁でしょうか。
 もう一人の女性とも昨日お会いしていて、その方は日本地雷処理を支援する会(JMAS)に勤務するOさん。彼女からは当時の日本人社会を知る年代の方として、ウエキ氏とともにマサオ・キクチ氏のことも教えてもらいました。残念ながら滞在中の時間の制約もありお会いするに至りませんでしたが。Oさんは前日まで日本にいて今日パラオに戻ってきたところだったそうで、このタイミングも何かしらの縁を感じたものです。
 Yさんから話を聞いたときは中高年の女性だろうと想像していたのですが、お二人とも20代から30代と思しきとてもチャーミングな方たちでした。

 幹線道路沿いにある店の外観を何枚か撮り、YANOでTさんたちと合流。前回とは違う惣菜を買い込んでホテルに戻りました。タピオカの団子のようなものは少し甘めでしたが、惣菜はどれもおいしく口に合わないものはありません。レストランでの食事も含め、地元食材や地元での味付けに違和感はありませんでした。
 この日は午後からアラカベサン島にある日本大使館を訪問することになっています。食事を終えて少し休憩の後、タクシーを呼んでもらい大使館へ。タクシーは初日からずっと同じ運転手にお願いしていて、小柄で気さくなそのおじさんはTさんをママさん、私をパパさんと呼びます。家族と思っていたのでしょうか。
 
 大使館では専門調査官という肩書のYさんが応対され、ここでも写真のことなどを話しました。大使館などは旅行中に事故など被害が生じたときに駆け込むところ、そんな認識しかないので表敬訪問という体験は新鮮でした。日本大使館はパラオで一番格上とされるホテルの敷地に隣接し、大使館を出るとそのままホテルの敷地内を散策できます。
 パラオパシフィックリゾートホテルには日本人のスタッフが常駐していることもあり、日本人観光客が安心して過ごせると人気があるそうです。また、パラオのホテルで唯一ホテル内の水道が飲料として使えます。ここ以外では水道水を飲むことはできず、ペットボトルの飲料水が提供されます。敷地内に砂浜のビーチがあるのにびっくり。自然のものか人工的に作られたものか知りませんが、すごく贅沢感が漂うホテルでした。宝くじでもあたって豪遊できるなら、次のパラオ旅行は家族とともにこのホテルに1年ほど泊まり、島巡りをし魚釣りをし一番暗い場所で星を観望を・・・。

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大使館玄関前にて
右から大使館員のYさん Tさんと友人のYさん、左端がM君

2019年4月21日 (日)

今日の太陽 2019/4/21

今日は朝から薄雲がかかる晴れでした。
城陽市議会議員選挙の投票に出かけてきました。
20人の定員に対し24人の立候補。
私の知り合いが3人、嫁さんの実家の遠い親戚が1人。この4人のだれに投票するかお楽しみ(笑)。
もちろん政治的に考えの近い人をすでに決めていますが、出来れば4人とも当選してほしい気持ちも。
薄雲が一向に無くなりません。
大黒様もなくなったし、プロミネンスも最近はしょぼいし、無理してまで撮ろうという気にならないまま時間だけが過ぎていきます。
しかし、15時を過ぎたころにやや日差しが強くなった気がして、蜘蛛の巣電線の隙間からHα望遠鏡だけ出すことに。
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11時方向に大きなプロミネンスが出ていました!
1/125秒と、いつもより遅いシャッター速度ですが、なんとかGETする事が出来めでたしめでたし。

そして遠くて近い国パラオへ 6

 この旅行記は旅行中に手帳に書いていたメモを元に記憶をたどり照合しながら書いているのですが、昨日アップした記事と撮っていた写真を念のため確認してみて、日にちに錯誤があったことが分かりました。
 手帳にはウエキ氏と会う予定が8日の午後になっていたのですが、写真に自動的に記録される日時と画像番号では、会ったのは同じ日の散歩の後ということになります。実際には翌日会う予定でいたのが、直接ウエキ氏とアポが取れたので当日に急に変更になったというのが事実です。
 昨日アップの記事を一部訂正し、改めてアップし直しています。わずか3か月前のことも既に記憶があやふやになっている。困ったものです。

 ホテルに戻りシャワーを浴びて汗を洗い流し終わると、Tさんからウエキ氏とアポイントが取れたから今から行きましょうと言われました。彼は日本語が堪能だからM君の通訳もいらないということで、Tさんと2人で取り急ぎ出かけることに。
 オフィスに到着するとすでにウエキ氏が待っておられました。今年の誕生日で88歳になるというウエキ氏に、母が戦前パラオに住み、結婚して家庭を持ったこと、戦時中の引揚げの際に持ち帰っていた当時の写真を、この度パラオの国立博物館に寄贈したことなど、かいつまんで話しながら昔の地図のコピーやデジタルスキャンしてプリントしておいた写真を見せると、髙橋商店が写っている写真のところで指が止まり、この店を知っているとのこと。
 当時少年だった彼は、母たちが営んでいたこの店でジャムを塗ったパンを買って食べたというのです。日本人の裕福な家庭の子は毎日のようにここでパンを買っていたが、自分やパラオ人の子どもはそういつも買えるわけではなかったとのこと。そんな話をしてくれた時のウエキ氏は、確かに当時を懐かしむ少年の表情でした。店のあった場所はわかるでしょうかと尋ねると、現在の繁華街の一角にある「ルー」という店のあたりだというのです。
 今と違って当時の中心街は間口の狭い商店などが隙間なく立ち並んでいました。そんな写真を私もパラオに来る前のリサーチで何枚か見ていましたが、そこに髙橋商店は残念ながら写っていませんでした。しかし当時を知る彼がそう話してくれたので、これ以上確かなことはありません。この話を聞いた時には思わず鳥肌が立ちました。
 母から話を聞き、写真もある。しかし当時の母たちを知るパラオの人たちはすでに亡くなっており、その子供や縁者がいるだけ。住んでいたという家も残っていない中、どこか誰かの物語を傍観しているような手ごたえのなさをずっと感じていたのですが、ウエキ氏の口から出た日常の何気ない風景を聞いたことで、やっとこれが自分につながる現実だと思えた瞬間でした。パラオに来て本当に良かったと思えた瞬間でもありました。

 高揚した気分でホテルに戻るともう夕暮れ時。この日の夕食はパラオに拠点を置く旅行会社(今回の旅行もこの会社で手配)の社長で、Tさんが親しくされているSさんのお誘いで、彼の経営する日本料理のレストラン鳥鳥(とりとり)でとることに。Sさん自ら運転する車で直行した店は繁華街の中にありすでに満席状態でしたが、予約席が確保されており、こちらが注文した以外の料理まで次々出てきます。私たち4人とも食事代が心配になってきましたが、いざ会計になった時、ここはすべて社長のSさん持ちとのこと。パラオでしか食べられない食材を使った料理をおなか一杯ご馳走になってしまいました。
 食事中にSさんに伺ったところによると、散歩のときに見た日本建築の屋敷は駐パラオ日本大使の公邸とのでした。納得。アルコールも入っていたので、Sさんは運転されずそのまま店に残り、私たちはお店の従業員さんにホテルまで送ってもらうことに。
 こうして、パラオ滞在2日目は私にとって充実の1日となりました。
 
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復刻版の戦前のコロール市街図を見るウエキ氏
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後ろの壁には大使時代と思われる写真や、昨年受けられた褒章状が額に入って飾られています
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RUR(ルー)ギフトショップ
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ルーに連なる商店街 この辺りの一角に母たちの店、髙橋商店があった

2019年4月20日 (土)

今日の太陽 2019/4/20

快晴。
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すでに大黒様は西端のかなたに消え、ちびっこ黒点も群ではなくなっている様子。
あの大黒様も衰えが見えていたので、2週間後にみたびお目にかかることはなさそう。
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大黒様のあたりは活発な活動が見てとれます。
プロミネンスは4時、5時、11時方向が活発の様子。

そして遠くて近い国パラオへ 5

 この時はウエキ氏と会えないままホテルに戻ることになったのですが、戻る途中、戦前母たちが暮らしていた家の近くを通るので、海の見えそうなところで車を止めてもらうことにしました。出来れば岸壁のようなところではなく、砂浜のような海面に触れられる海岸がいいのですが、コロール島はサンゴの隆起でできた島なので、砂浜がほとんど無いようです。
 戦前のコロール市街地図(復刻版)とグーグルマップをプリントしたものを見比べると、細い道などが異なっています。戦争で一度荒れたあと、区画整理などが行われたのかもしれません。両地図を見比べるとアイランド・パラダイスリゾートクラブ(IRRC)というホテルが、昔の地図にある家とは少し離れているようですが、海に出るには一番よさそう。
 ホテルの敷地内なのでM君に通訳をお願いし、「戦前に家族がこの近くに住んでいたので懐かしく、少し散策させてほしい」と告げると、責任者らしい中国系の人物が快く応じてくれました。海岸近くまで寄ると砂浜ではありませんが水際まで下りられるようになっていました。同行の3人には待ってもらい水際まで下りて、カバンから小さな封筒を取り出します。中身は14年前の夏、和歌山・串本の海に散骨した時、遺灰を包んでいたガーゼです。普段は仏壇の中に収めていたもので、日本を出るときまだ少し繊維の隙間に灰が残っているのを確かめていました。
 ガーゼをそっと海水に浸し、手を合わせ黙とう。それから水の中の砂粒を少しつまみ取って、ガーゼとともに封筒に収めました。ここへ来られなかった兄に頼まれていたのです。
 待ってもらっていた3人のところに戻り、礼を言おうとした瞬間、急に胸が詰まり涙があふれてきました。急いでハンカチで目と口を押えましたが、嗚咽が止まりません。突然のこの事態に成す術もなくしばらく立ち尽くしてしまいました。病院で母が息を引き取ったときも、葬儀の時も串本で散骨した時も涙ひとつ出ることなく冷静でいられたから、自分は冷たい人間なのかなと思ったぐらいでした。それなのにこんなことになるとは我ながら心底驚いてしまいました。
 ようやく落ち着いたところでTさんたちに、待ってもらったお礼とパニックになったことを詫び、心配そうに遠くで眺めていたホテルの人にも礼を言って、宿泊先のホテルに戻りましたが、戻る車中でも、何かしゃべろうとするとすぐまた涙があふれそうになります。まだまだ気持ちが高ぶっているようでした。
 ホテルの部屋に戻りしばらく休憩しましたが、夕食まで十分に時間があり、母たちが住んでいた家のあたりを探してみたいという思いが高まっていたので、1時間ぐらいで戻りますと告げて一人で散歩に出かけることに。実際地図で見ると先ほど散骨したIRRCまで歩いて往復40分もあれば十分そう。
 南国の午後の強い日差しのもと、旧地図とグーグルマップを見比べながら歩くと、IRRCの手前から家のあたりに続くはずの小道がありません。しかし、少し離れたところに別の小道があったのでそこをずんずん進んでいくと、IRRCの裏手に当たる海岸に出ました。そこには別のこじんまりしたホテルらしい建物がありますが人がいる気配がありません。海岸と反対の崖の方を見ると、木立の隙間から家が見えました。
 もう一度旧地図を見ると、どうも崖の上のその家のあたりが本命のようです。小道を戻り崖の上に通じる道を探しますが、住宅の敷地内を通る道のほか見当たりません。グーグルマップを見返し、マラカル島からアラカベサン島の方に行く分かれ道まで戻り、そこからアラカベサン島側に行く道から分かれてぐるりとアルファベットのCのように円弧を描く道があるので、その道を行くと崖の上の家にいけそう。
 すでに体は汗でベトベトになっていますが、何としても確認しておきたい気持ちが強く、円弧の道をたどっていくと、突然日本風の屋敷のような建物が目に飛び込んできました。見ると日の丸の国旗が掲げられ壁には金色の菊の紋がはめ込まれています。何? でもこれは戦前に建てられた家ではありません。
 道をさらに進むと、先ほど崖下から見えていた家が見つかりました。Cの字を三分の二ほど進んだところです。今は現地の人の家が点在していますが、旧地図では確かにこの辺りが家があった場所に違いありません。やっと見つけたという小さな達成感で足取りも軽く・・・でもなかったけれど、気持ちよく帰り道を急ぐことに。
 
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ホテル敷地内の海岸 左側から海岸に降りられました
ここで最後の散骨
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ようやく気分が落ち着いたところで記念に1枚
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大使公邸
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75年前には、おそらくこの辺りに母たちの家があったはず

2019年4月19日 (金)

今日の太陽 2019/4/19

曇り時々薄曇り。
薄雲が広がっているので、とにかく白色光だけでも。
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今日がこの位置なら明日は無理かも。
左上のちびっこ黒点は幾分黒さを増しているような・・・。
Hα光は到底無理なので観望もしません。

そして遠くて近い国パラオへ 4

 滞在1日目の夕食場所に選んだカープレストランは、旅行パンフやネットでもよく知られたパラオの名物レストランです。いわゆる大衆食堂の部類ですが、値段が手ごろなうえ量が他所の店の1.5倍はありそうなボリューム。そしてこの店のオーナーの奥さんが何よりの名物とのこと。年配のご夫婦とも日本人ですが、ご主人は野球の読売ジャイアンツのファンなのに対し、奥さんの方は広島カープのファン。奥さんの主張が通って店の名前をカープにしたそうです。この奥さんがまた気さくでよく喋る。
 このカープレストランのオーナー岸川さんのお父さんが母と同じ佐賀県の出身で、戦前のパラオに出稼ぎに来ており、終戦時のアメリカによる日本人強制退去の際、孤児になっていた知り合いの日系パラオ人の少年を連れて故郷の伊万里に引き上げたそうです。この時の少年については少し詳しく後述します。
 夕食から満腹で戻り、前日ほとんど寝ていないこともあってすぐに就寝・・・ところが2時間ほどで目が覚めてしまい、これ以上寝られそうになくて外を見ると星空! 早速カメラと三脚をもって、ホテルの近くの岸壁に出かけました。この時をはじめコロールに滞在中に撮影した星の写真については、1月のブログでアップしています。

 1月7日。最初の公式訪問先はパラオ国立博物館。
 地元紙・京都新聞に大きく紙面を割いて記事にしていただき、Web紙面でも取り上げてもらったことが、台湾在住のパラオ民俗学研究者の目に留まり、その友人の京都大学事務職員U氏を通じて、これまで見たことのない写真なのでぜひ国立博物館に寄贈されてはどうか、とのお話をいただきました。正直なところその扱いに迷い、いずれは破棄することになるかもしれないと思っていた写真だけに、パラオの博物館で展示保存していただけるなら、それが一番いいかもしれないと兄とも相談。
 最初は郵送するつもりでいたのですが、急遽パラオ旅行がまとまったので直接手渡すことになりました。当初博物館の方では小規模ながら贈呈式を予定し、地元新聞社も来るよう手配するとのことでしたが、そういう事に不慣れで堅苦しいことは苦手なので、出来るだけ簡素に願いたいと伝えていました。
 受付で来訪を告げると、気さくなおじさんという印象のサイモン・アデルバイ氏が応対。ロビー横の喫茶室で寄贈する写真のそれぞれについて確認することに。事前にリストにしてU氏経由で渡してあるので補足的な話をし、屋外に出て記念撮影。そのあと館内の展示物を案内してもらい再び喫茶室に戻ると、今度は少し年配の男性が待っていました。
 アデルバイ氏から副館長のスコット・ヤノ氏と紹介され、再び写真についてのいきさつなどを話しながら歓談。今度も屋外に出て記念撮影も。ヤノ氏が日系なのかどうか名前だけではわかりませんが、日本の姓を名乗るのは日系人だけでなく、日本の植民地時代に、世話になったり親しくしていた日本人の姓を付ける純粋のパラオ人もいたとか。今ではアメリカ的な姓や名前を付けている人も多いようで、これも時代の流れでしょう。もうひとつ。前日昼食を買い求めた惣菜店YANOはヤノ氏の弟が経営しているとのことでした。
 昼を過ぎたころになり、そろそろお邪魔しようとしていたら、副館長の指示で特大のハンバーガーが出され、遠慮なくごちそうになってから退出。
 昼を過ぎ、ドクター・ミノル・ウエキ氏に会いにマラカル島に移動。しかし、事前にアポを取っていなかったのか生憎不在。出直すことになります。
 ミノル・ウエキ氏について私は全く情報を持っていませんでしたが、Tさんの話では前述のカープレストランオーナーのお父さんが、終戦後に連れて帰った日系パラオ人の少年だということです。彼は日本に引き揚げた後、中学校に通い日本の教育を受けます。数年後、帰国が叶いパラオに戻り、さらにアメリカにわたって医学を学び、ふたたびパラオに戻り国立病院で医者として勤務、のちに政治家となり日本へはパラオ大使として3年間赴任経験もある、努力家の秀才という人物。日本との国際交流で貢献大ということで昨年秋の叙勲で旭日重光章を受けられたとのことです。
 そんな人物と一介の民間人に過ぎない私が気安く会えるのかと不審に思いましたが、彼なら少年時代に戦前の日本人社会を知っているので、何か手掛かりの話が聞けるかもしれないと、Tさんの提案で進めていただいていました。これもTさんの顔の広さです。

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パラオ国立博物館 向うに見えるのは天体ドーム?
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喫茶・食堂で写真の確認中 右から2人目が私 真ん中がアデルバイ氏
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博物館の壁に描かれた壁画の前で 左がヤノ氏、右はTさん
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博物館の敷地にあるアバイ
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母の持ち帰った写真にあるアバイ これは戦争で焼失していました。
アバイはパラオの伝統的建築物で集会所として各地にあったようですが、戦争で多数失われ戦後再建されたものも。

2019年4月18日 (木)

今日の太陽 2019/4/18

快晴。時々薄雲が広がっています。
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大き目の黒点は今日も健在。
あと2日で西端からバイバイかな。
左上の方に小さな黒点が2つ見えます。
新たな黒点群の発生。
事前にかひちやうさんの部屋を見ていたので見落とし無し(苦笑)。
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3時方向と11時方向にプロミネンス。
11時方向はまずまずのサイズです。

そして遠くて近い国パラオへ 3

 1月6日は日曜日。公式訪問の相手先はいずれも休みなので、朝食までしばし仮眠を取り、食後にはこれからどう行動するかTさんたちと打ち合わせ。TさんとYさんは2週間強の滞在のうち、農業支援のため現地の各方面と会合や打ち合わせの予定が詰まっているのですが、私が滞在する1週間弱の間はこちらの予定を優先していただけるとのこと。M君の方はホームスティと研修が1週間先から始まるので、彼も私に付き合って通訳を引き受けてくれることになりました。
 打ち合わせが済んで昼近くになったので、Tさんの案内でコロールの中心街を見学に行くことに。空港のある本島バベルダオブ島からコロール島を貫いて、隣接するアラカベサン島とマラカル島に至る幹線道路沿いのコロール島の真ん中あたりにホテルやスーパーマーケット、土産物店が並び、警察署、郵便局、銀行などの公共施設もあります。
 しかし、パラオ唯一の繁華街とツアーのパンフレットなどには紹介されているものの、感じたままを正直に言えば、日本の地方都市の駅前商店街といった印象。幹線道路が広く、間口の広いお店が間隔を広くとって並んでいるのと、全体に建物が古い印象があって全体としてそう感じたのかもしれません。
 車は間断なく通るのですが信号機は見かけません。横断歩道もなく歩く人もまばら。パラオ人の人口が少ないのと、観光客の目的はほとんどが海なので、ダイビングから戻ってくる夕方からが活気づいてくるのでしょうか。
 一番大きなスーパーマーケットのWCTCに入りぐるりと一回り。棚に並んでいるフルーツや野菜など一部の地元食材以外はほとんどが輸入品。特に目立つのがアメリカの商品で、次に多いのが日本の商品。東南アジアからのものも目につきました。観光資源以外これといった産業がなく、アメリカと日本の経済援助に頼っているのが現状らしく、物価は日本とほとんど変わらないようです。
 かつて日本が入植し先住民に農業を指導したというのも今は昔。敗戦で日本人が引き上げアメリカが信託統治するようになると、経済支援はするが自立のための支援はしない政策をとります。日本の教育を受け農業をしていた人たちも、時とともに老い彼らの子どもの代になると多くは自生しているイモ類を主食に、いつでも手に入るフルール類を食べ、自分達が食べる分だけ漁で魚をとるといった、元の生活スタイルに戻ってしまったようです。あくせく働かなくても食うに困らないし、経済支援を受けているからそこそこのレベルの生活ができるというわけです。
 酋長と呼ばれる昔からの名家の一門、いわゆるエリートでインテリ層である人たちは国の将来を考え、外国資本を呼び込んで提携し観光産業に力を入れ、あるいは自立のため農業振興、養鶏などに取り組んでいて、NPOのTさんの支援活動もそうした流れの中にあるそうです。しかしパラオ人の国民性と、かつての日本のような半強制的な手法は現在では通用しないので、なかなか難しいことのようです。
 もうひとつ、農業支援がはかどらない原因が土地問題にあるとのこと。戦前に日本人によって開墾された土地は土地台帳で管理されていましたが、戦争によって失われ、その後の混乱もあって、土地の所有者が誰なのか今もって争われている場所が多くあり、うかつに支援に入れないのだとか。

 またしても話が逸れてしまいました。
 WCTCを見学後もいくつかの食料品店を見てまわったのですが、その1軒で思わぬ出会いがありました。前年の10月に預けた写真をもって人探しをしてくださったTさんですが、その時見つけてくださっていた3組の家族のうち、パラオ美人花子さんの孫夫婦が買い物に来店していたのにTさんが気づき、その場でご対面。この時は軽いあいさつ程度で済ませたのですが、2日後、もう一度会うことになります。
 さて、歩き疲れてきたのでそろそろ昼食をということでWCTCまで戻り、隣のYANO惣菜店で食料調達。手軽に安価に済ませるときに便利な店と、ネットの観光案内でも紹介されている店です。値段と量を見て納得。せっかくだから現地食を食べたいと言ってタピオカや鶏肉の総菜を買って、ホテルに戻り遅めの昼食にありつきました。
 昼食後はホテルの周囲を散歩したり部屋で休憩したり。
 昼食を安上がりで済ませたので、夕食はTさんのなじみのレストランですることになり、タクシーでマラカル島にあるカープレストランへ。このレストランは旅行前にネットで調べていて私が一度は行きたいと思っていた店でした。ちなみにパラオでは鉄道や公共交通機関はないので、少し距離のある移動はレンタカーを利用するか、事前交渉で運賃を決めるタクシーを利用することになります。
 カープレストランについては次回に。

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コロール郵便局
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空港のあるバベルダオブ島方面
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この先数キロのところで右にカーブすると、日本大使館もあるアラカベサン島、左折するとカープレストランがあるマラカル島
右端の3人が今回同行いただいた方たち

2019年4月16日 (火)

今日の太陽 2019/4/16

時折薄雲があるぐらいでほぼ快晴。
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大黒点様は健在。でも心持ち小さくなったような気も・・・。
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プロミネンスは3時方向に目立ちますが、それ以外の周縁にも小さなものが出ています。

そして遠くて近い国パラオへ 2

 仁川発パラオ行きの出発時刻は22時過ぎ、到着は4時間半後になっています。事前に調べたところ、台北経由、グアム経由ともパラオ・コロール国際空港着は午前2時から4時台になっています。さらに、パラオ発もそれらの時間帯に集中しています。いずれも深夜早朝帯の発着なのは何か理由があるのでしょうか。
 搭乗開始は遅れもなく順調に進みましたが、関空-仁川間就航機に比べ一回り小型の機体です。飛行時間は倍以上長いけれど、乗客数が少ないのでローカル線扱いになるのは仕方ないですね。とはいえ機内はほぼ満席、やはり韓国人が一番多く、時折中国語が聞こえ、白人の姿もちらほら。
 同行のM君と隣り合わせの通路側の席に着きましたが、彼は仮眠を取りますからと窓側の席を譲ってくれました。私の方はといえば座ったまま寝ることができないほうなので、窓側でなければ時間つぶしにとナンプレ本を忍ばせていました。離陸とともに窓外に広がる韓国の夜景を眺めているのは私ぐらいか・・・お上りさん気分です。
 しばらくすると海に出たのでしょう、眼下は真っ暗です。でもすぐにまた九州の街明かりが見えてきました。それもしばらくの間だけでまた真っ暗になりました。ようやく太平洋に出たようです。照明を落とした機内の薄暗がりでナンプレを始めましたが、それにも疲れふと窓の外を見ると平行目線よりも高いところに見慣れた星の並びが見えます。プレアデス星団、和名すばるです。上空大気のフィルターが薄いうえ、光害もないので明るくはっきり見えています。ほかにも見えないか、小さな窓に顔をつけて周囲を見渡すと、アルデバランとヒアデスも。
 星探しに疲れてしばし目を閉じ、ナンプレを少しやり、また窓の外を見る、そんなことを繰り返していると、眼下に明かりが見えてきて、やがて機内アナウンスがあり、ついにパラオに着いたようです。
 コロール空港は国際空港とはいっても国の規模が小さく人口も少ないので、鹿児島の屋久島空港に近いローカル空港という印象です。機外に出ると南国の暑い外気のお出迎え。20歳のころ社員旅行で連れて行ってもらったタイのバンコクを思い出しました。あの時も2月の冬の日本を出発してのことで、機外に出るとムッとするような暑い空気に驚いたものです。
 冷房のあまり効いていないような空港内で、韓国人の団体さんが入国審査を受ける様子を見ながら、厚物の上着から薄手の物に着替えます。機内では気が付きませんでしたが、パラオ人乗客も何人かいたようで、外国人とは別の審査所を通ってさっさと出ていきます。それに引き換え団体さんの方はなかなかはかどりません。トランクもバッグもいちいち開けて念入りにチェックを受けています。
 最後尾に並んでいた私たちの順番になり、タバコと果物を持っていないかと尋ねられ、持っていないと告げながらキャリーケースをカウンターに置いてチャックを開けようとすると、必要ないと身振り手振りで示し行っていいというそぶり。え? ほんとにいいの? そんな表情で無事通過。団体さんのチェックに疲れ雑になっているのかと思ったら、Tさん曰く「中国人や韓国人は禁止されているものを持ち込むことが多いから、念入りに調べられるけれど、日本人は信用されているから」と。そんなところにも戦前からの日本とパラオの結びつきが受け継がれているのかなと、妙に納得しました。あるいは支援活動でたびたびパラオを訪れているTさんの顔パス効果なのかも。
 ようやく空港の外に出ると、予約したホテルから迎えのマイクロバスが待っていました。運転手は旅行社の現地スタッフで、私たちがなかなか出てこないので、乗り遅れたかキャンセルかと心配していたそうです。バベルダオブ島南部にある空港から滞在先コロール島のホテルまで、街灯の少ない舗装の悪い道を40分ほど走って到着。
 ランドマークマリーナホテルではM君と同部屋で、荷物を置くとすぐに私は外に出てみることに。サンゴの島で入り組んだ湾に建つ小さなホテルですが、目の前の岸壁から浮桟橋に降りるとたくさんの小型船が係留されています。スキューバダイビング客に人気のホテルだとか。桟橋からのぞき込むと街灯に照らされた透明度の良い海中に魚が泳いでいるのが見えます。中でも40cmはありそうなサヨリが手の届きそうなところを悠々と泳いでいるのを見ると、釣り好きとしてはムズムズしてきます。
 桟橋を沖の方に移動すると、ホテルの陰に隠れていた異様に明るい星が見えてきました。明けの明星・金星です。日本で見る金星の何倍も明るく輝いています。この時期は月の見えない新月期ですが、満月の下では月明かりだけで新聞が読めた、と母が言っていたのを思い出します。
 とうとうパラオにやってきたと、その時ようやく実感しました。
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ランドマークマリーナホテル。
規模は大きくないが岸壁のすぐそばで、海に出るには便利。
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ホテルからの風景。
日本、パラオ、米国の旗が立っているのは、国際サンゴ礁センター。
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ホテルからの風景。サンゴ礁センターの隣の水族館。

2019年4月15日 (月)

今日の太陽 2019/4/15

雲が多く風の強く吹く晴れ。
午後になってようやく撮影にこぎつけましたが、太陽の縁がゆらゆら陽炎のように揺れて定まりません。
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1枚だけで処理してみましたが、こんな感じなので多枚数をスタックしてもボケたような画像にしかなりません。
それでもやるしかない。
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これが精いっぱいです。
白色光を撮り終えたところで厚い雲に覆いつくされてしまったので、Hαはお休みです。
その後蜘蛛の巣電線越しに観望だけしましたが、プロミネンスは1か所だけの寂しいお天道さまでした。

そして遠くて近い国パラオへ 1

 外国語は全く苦手。英語も読み書きともダメなので一人で海外に行った経験がなく、そのうえ国内旅行でも個人で飛行機を利用したことがない。そうした旅行はすべてツアーか社員旅行での経験。こんな消極的な人間なので佐賀県の方からパラを行きを誘われ、合流は韓国の仁川空港で、と聞いた時には正直小さな子供が初めてのお使いに出されるときの気分。
 幸い航空券や現地での宿の手配は、何度も渡航の経験のあるその方のなじみの旅行社でしていただけることになり、自分ではパスポートの取得と旅行保険を掛けることぐらいで済みました。体力に自信がないので荷物はできるだけ少なくコンパクトを心がけ、機内持ち込みサイズのキャリーケースを購入。博物館に寄贈する写真、昔のコロールの地図と現在の衛星写真のプリントなど、旅の目的に必要な資料類。5泊6日になるので必要最小限の着替え類など。せっかく南の島に行くなら南十字星も見たい撮りたいということで、コンパクトなトラベル三脚を新たに購入。
 海外旅行の経験豊富な人から見れば笑ってしまうような些細なことまで、これは空港で機内持ち込みをとがめられないか、それはダメかもと迷ってはネット検索で調べ、持っていくものの取捨選択をしているうちに日が過ぎ、年が明けてしまいました。一方で戦前と現在のパラオについての情報も、抜かりなく本やネットで調べておきます。

 1月5日。空港での出国諸手続きに手間取って飛行機に乗り遅れるようなことがあっては大変と、フライト予定時刻より相当早めに関空に向けて家を出発。今回旅行に誘っていただいた佐賀県の方とは仁川空港で落ち合うことになっているので、そこまでは何としても自力で到着しなくてはならないと、ある種悲壮な覚悟でしたが、案ずるより産むがやすし。何事もなくスムーズに手続きを終え、飛行機の出発まで退屈な数時間を過ごすことになってしまいました。
 乗る予定の飛行機の到着が遅れ、出発も予定より20分ほど遅れましたが、仁川での乗り継ぎにも十分時間があるので焦ることなくフライトを楽しむことに。思えば社員旅行で沖縄に行って以来10年ぶりに飛行機への搭乗です。
 一昨年の夏ごろまでは日本パラオ間にも定期便があったそうですが現在はなく、韓国の航空会社を利用して仁川経由、台湾の航空会社を利用して台北経由、アメリカの航空会社を利用してグアム経由の3択になり、今回は全行程アシアナ航空を利用します。機内アナウンスは基本韓国語ですが、仁川までは日本航路なので日本語でのアナウンスもありこれも安心。でも座席周囲は韓国語が飛び交っています。
 2時間の飛行ののち無事に仁川空港に到着。長い通路をひたすらキャリーを引きながら乗り継ぎカウンターを目指します。幸い同じターミナル内の移動で済んだのですが、それにしても東アジアのハブ空港というだけあって広い。途中、乗り継ぎセキュリティチェックの関門も無事クリア。予定では福岡空港からの便はもう到着しているはず。待合わせの乗り継ぎカウンターに急ぎますが、まだそれらしい人物は見当たりません。
 しばらく椅子に掛けて待っていると、メールのやり取りから写真で見知ったTさんが到着。Tさんの友人のYさん、佐賀大学の学生M君もご一緒。Tさんは佐賀県庁で公務員をされた後、パラオやスリランカに支援活動をする国際交流NPOを立ち上げたという、行動力抜群の女性。Yさんは70代の女性ながら好奇心旺盛で中年過ぎて英語を習得されたとのこと。M君もTさんの知り合いで、今回パラオで3か月間研修する目的で、急遽ホームステイ先のオランダからいったん帰国しての同行とのこと。このM君が今回の旅で通訳を買って出てくれました。
 パラオ行きの搭乗手続きまで十分時間があるので、遅い夕食を取るとにし食事をしながらしばし歓談。とてもついさっき知り合ったばかりとは思えない気さくさで話が弾み、心の片隅に残っていた今回の旅への一抹の不安も消え去っていました。

2019年4月14日 (日)

なぜパラオへ行くことになったのか 5

 前回は私のことで多くの字数を割いてしまいました。また、前回の文中、大きな間違いをしていることに気が付いたので、ここで訂正します。
 母たちが故郷の佐賀に戻ったころには、父親やその後妻である継母は既に他界しており、沢山いた異母弟・妹たちの誰かが家を継いでいました。父親がまだ健在だったら、自分の仕送りで建てたと思っている母は、家の権利を主張することもできたかもしれません。しかし相手が兄弟たちでは多勢に無勢、居座ることもままならなかったのだと思います。厄介者扱いというのが全体にあり、それを直接行動で示したのが前述の末弟だったに過ぎないと想像できます。
閑話休題。

 私が中学を卒業するころには、ようやく生活も安定するようになっていましたが、まだまだ経済的余裕はありませんでした。もともと成績が悪く頭が良くないのを自覚していた私には高校へ進学する気はなく、中学卒業後に就職するつもりでいましたが、親しくしていた級友が定時制高校を受験すると聞き、付き合うつもりで受験したところ何かの間違いで合格してしまい、昼間は会社で仕事、夕方から高校生という生活が始まりました。なにがしかの生活費を家に入れ、学費ももちろん給料から賄うという疑似自立のスタートでした。

 母と末弟である叔父が再会を果たしたのは、私が就職して初めてのボーナスで母の里帰りを後押ししてから1年ほど後のことでした。故郷にもう実家はなく異母弟妹たちはすでに亡くなっているか消息不明の状況。親せきを訪ね、恩人山下先生のお宅を訪ねるだけの旅でしたが、その親せきからの連絡で叔父の方から会いたいと連絡が入ったとき、母も長兄も警戒心で迷っていました。兄には子供の時にいじめられた記憶があり、母は母で、前年に親せきを訪ねたとき、あまり芳しい話を聞いていなかったのです。
 しかし、散り散りになった兄弟で存命で連絡が付いたのは叔父だけ。過去に嫌な思い出があってもそれを乗り越える姉弟の情が勝ったのでしょう。いざ会ってみると、叔父もその後苦労したのでしょうかすっかり丸くなっており、終戦前後に別れてからの互いの苦労話が尽きないようでした。
 叔父は父親の気質を受け継いでいたのか、若いころに旅芸人になり芸人仲間の女性と結婚していました。二枚目役者としてそれなりの人気はあったそうです。しかし年を経ていつまでも不安定な旅役者でもなかろうと、当時贔屓にしてくれていたやくざの親分の紹介で、再会したころには製鉄工場の工員として働くようになっていました。

 母がよく自分の生い立ちのことやパラオ時代のことを話すのに比べ、まだ幼児だった次兄はともかく、すでに物心がついていた長兄はパラオ時代のこと、戦後の苦労話など一切しませんでした。触れたくない澱として心の底に淀んでいたのだろうと思います。その長兄は若いころの苦労が祟ったのか、母に先立つこと3年、2001年に66歳の誕生日を迎えて数日後に病没しました。同じ年の4か月前に長兄が嫌っていた叔父が脳卒中で亡くなっているのは、偶然とはいえ因縁めいたものを思わずにいられません。あの世では和解し仲良くしてくれていると祈るのみです。
 それから3年、母も波乱に満ちた生涯を2度の脳梗塞の末(戸籍上)90歳で終えたのでした。母の遺骨は婚家の宗派であるお寺に納骨しましたが、少しばかり残した遺灰は母が青春を過ごし、結婚し、一番幸せだったであろうパラオに、そして夫が眠るペリリュー島に少しでも近いところに、と南紀串本の海に散骨をしてきました。

 さらに14年を経た昨年、新聞記事になったことから縁あって、母の持ち帰ったパラオ時代の写真を、戦前のパラオの庶民生活を知る貴重な資料として、パラオの国立博物館に寄贈しませんか、と勧めてくださる方がありました。話が進むなか、今度は写真に写っていたパラオ人の親族探しをしてくださった、母の故郷のNPO法人の方のお誘いでコロールを訪れることになり、年明けの今年正月に、件の写真を直接博物館側に手渡し、かの地で母たちの暮らしがあった場所探し、縁のあった人の親族との面会を目的とする旅がはじまった次第。

 生前、昔の話をするたび懐かしがり、テレビ等でパラオが取り上げられ、ペリリュー島での玉砕が特集されるたび、画面を食い入るように眺めていた母は、戦時中の半強制的な引揚げ以来、第二の故郷ともいうべきパラオへの再訪を望んでいましたが、初めは経済的困窮から、年老いてからは体力の衰えと飛行機は嫌だとの理由から、とうとう叶いませんでした。
 本来なら唯一存命の三男である次兄が生まれ故郷に行くべきなのですが、何分蓄えのない年金暮らしのうえ最近体調が思わしくないので、今回は一連のきっかけを作ってくれた私にすべて任せるというのです。兄の分まで旅費を負担できればよかったのですが、自分の葬儀費用にと残している蓄えから、一人分をねん出するのが精いっぱいの身では、かっこいい真似はできませんでした。
 領土拡大を目論んだ挙句、多くの犠牲者を出し、それまでの領土すら失い敗戦した先の大戦。それさえなければ母や兄たちは南国の地で豊かに暮らしていただろうし、私が生まれてくることはなかった。そんな私が家族を代表するような形でかの地を訪れる。何とも言えない気持ちを抱えての旅になりました。

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母との再会を果たした後、叔父からもらった若いころの名刺。
「美剣士」の肩書に叔父の子である従弟が笑っていました。
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母の納骨から半年過ぎたころ、嫁さんと子供を連れて串本に。
この海から潮の流れに乗ってパラオに届けと願っての散骨でした。

2019年4月13日 (土)

今日の太陽 2019/4/13

快晴。昼を過ぎて少し薄雲が広がっています。
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大黒様は今日もお元気。東側のお供は少し薄くなった?
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Hαでも大黒様はくっきりですが、プロミネンスはしょぼいままです。
 
今日は撮影時快晴だったので、久しぶりにAZ-GTiを出しました。
天気が安定していないと、Wi-Fiを接続したりコントローラをいじっている間に撮影のタイミングを逃すこともあり、さっと出してすぐ使えるポルタⅡに回帰していたのですが、空が安定しているなら自動追尾してくれるほうがピント合わせも楽なAZ-GTi
それに、しばらく使っていないと使い方を忘れるしね(苦笑)。

なぜパラオに行くことになったのか 4

 命からがら内地にたどり着いた母たちは、夫との約束に従い故郷の佐賀を目指したのですが、戻った実家の、彼女の仕送りで建てた家(と母は言っていました)に、母たちの居場所は無かったのです。父親はすでに再婚しており子だくさん。一番下の、母にとって腹違いの末弟は自分の長男とは6歳違い。十分事情の分からない末弟にとって姉とその子供たちは、食糧難の時代に突然転がり込んできた厄介者に映ったのでしょう。長男はその時6歳上の叔父に酷くいじめられたことを生涯忘れず、数十年ののち再会した時も心からの和解はできませんでした。
 そんな子供たちの事情を見ておれず、母は子供たちを連れて夫の実家を頼ることにしました。結婚後もほとんどパラオで過ごしていた母たちにとって、夫の故郷滋賀県は見知らぬ土地、よそ者でしたが姑は温かく迎えてくれたようです。
 しかし、その姑も終戦後すぐに亡くなり、消息の分からなかった夫は招集されたその年のうちに、パラオの激戦地ペリリュー島で玉砕していたことが分かります。遺骨どころか髪の毛1本も戻らず、ただ戦死公報で2階級特進が知らされただけでした。
 母たちの苦境はそれだけでは終わりませんでした。
 未亡人となった母に縁談が寄せられましたが、当時家督を継いでいた夫の兄が反対し、再婚するなら子供たちを置いていけと言われたそうです。再婚先で子供がいじめられることもあるかもしれないとの思いから、それに従い再婚を断ったところ、京都に所帯を持っていた義兄が、母のもとに来るたび子供たちの面倒は見るからと関係を迫ってきたそうです。そしてとうとう抗しきれず・・・その結果生まれたのが私ということです。

 産むかどうか迷った挙句、生まれてくる子供に罪はないと周囲から諭され産む決心をしたと、そう聞かされたのはまだ私が幼児の頃でした。物心つくかつかないかの頃からそんな事情を隠さず聞かされていたおかげで、判断が付く年頃になってもショックらしいものはありませんでした。物心の付いた幼児期、父が1か月に一度しか家に来ないのを心待ちし、来たときは喜びはしゃぎまわっていたそうです。ただ、泊っていって欲しいといくらせがんでも聞き入れてもらえなかったのは不満でしたが、そんな時母や兄がどんな思いでいたか、心中を推し量れる歳になってから当時を思うと複雑なものがあります。
 世間では子供の出自に問題があると考えるとき、その子に隠し通すか成人するまで話さない、ということもあるようです。しかし、自身の経験から言えば何かのきっかけで隠されていた事実を知ったときのショックが大きいだろうし、隠されたことで自分の存在が悪いことのように思うかもしれません。出自をたどりたいと思った時には関係者が亡くなっていたりして手遅れ、ということもあるでしょう。
 子どもの人生はその子のものであり、どう対処するか本人に任せればいい。そのためにも隠さず幼少期のうちに何でもないことのようにあけっぴろげに話してあげてほしいと思います。愛情をもって育てていれば幼少期に真相を告げても何も問題は起きないと私は思います。
 母は私がいずれ自分の出自を恨んで反抗し、非行に走るかもしれないと危惧したこともあったようですが、むしろ私が生まれるに至った事情で傷ついたはずの兄たちが、普通に兄弟として接してくれたことで、わたしは自分を否定すことなく成長できたのです。
 判断が付くようになってから思ったことは、わが父親はずいぶんひどい男だったんだなあと。しかし父親も高齢になってからの末子ということか私には甘かった。そんなことから父母を恨むようなことはありませんでした。何よりそういう事実がなければ今の自分は存在していないし、結局自身の存在をを肯定するほかないわけですよね。

 しかし、母や兄たちにとっては事情が違ったはず。母は我が子を守るため関係を持たざるを得なかったし、兄たち、とくに反抗期を迎えつつあった長兄にとって、自分たちの立場の弱さに付け込んだ伯父は、許し難い存在だったと想像に難くありません。相応の反発があったのかどうか、私が生まれてほどなく、中学1年で中退させられ、長男として一家を支えるという名目で(私の)父親の知り合いの京都の店に、住み込みの職人見習いとして出されました。
 私たちが京都に引っ越し再び長兄と一緒に住み始めたのは、それから4、5年過ぎてからだったと思います。兄たちは事情を知ったうえで私を弟として隔てなく接してくれたし、私もそれを当たり前として成長しましたが、長兄の心中では葛藤があり続けたのでしょう。長兄が結婚して所帯を持ち子供が生まれたころから、次第に母との溝が深まっていったようです。少年期のつらい体験や生真面目な性格が影響していたのかもしれません。

 ここで父についても少しふれておきたいと思います。
 父は小作農の長男として1896年に滋賀県で生まれ、子供のころに京都室町の呉服商に丁稚奉公に出ています。27歳で結婚し暖簾分けで独立し店を構えます。子供もでき商売は順調で一時は羽振りもよかったそうです。そのころ祇園の芸者さんとのあいだにも一女をもうけています。この異母姉と私は父の葬儀の時に1度会ったきりです。
 しかし羽振りの良かったのが却って仇になったのか、手を広げようとした矢先、得意先の倒産に会い連鎖倒産してしまいます。その後どういう経緯か聞いていませんが大手生保会社に就職し、商売をしていたころの顔の広さを武器に企業年金などの獲得で成績を上げ、売り上げ上位の常連だった時期もあったようです。70歳を過ぎても嘱託で仕事をしていましたが、さすがにその頃は小遣い稼ぎ程度の収入だったようです。
 父は1986年、90歳で亡くなりますがその数年前から痴ほうが徐々に始まっていました。この父の5歳年下の弟が母の夫となった人です。

2019年4月12日 (金)

今日の太陽 2019/4/12

昨日より雲の多い晴れ。
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大黒様の東隣に小さな黒点が増えています。
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3時方向のプロミネンスは寂しくなっています。
 
今朝もルーターが不安定でなかなかネットにつながらず。
NTTの技術に電話して交換してもらいました。
最新の機器に取換えて接続も読み込みもサクサクです。
よかったよかった(笑)。

なぜパラオに行くことになったのか 3

(最初にお断り) 掲載の写真は個人的なものなので転載、コピー保存など無断でのご使用は固くお断りします。

 やがて年頃になった母は、叔父の紹介で滋賀県出身の男性と見合いをし、1934年に結婚します。夫となった男性は農家の次男坊で母より先にパラオに出稼ぎに来て、1931年に食料品を主に扱う商店を開業していました。一回りほども年が違う相手に最初は戸惑い、私には叔父さんに騙されたと言いながらも、笑っていたところを見ると、決して意に染まぬ相手ではなかったのでしょう。
 パラオ人を数名雇いそれなりに繁盛していたそうで、母と結婚後にはコロールの繁華街の一角に小さいながら店を移しています。店ではかき氷も売っていたそうで南国でかき氷など知らない現地人には珍しく、食べては頭が痛くなる様子を、母が面白そうに話していたのを記憶しています。当時はカツオの遠洋漁業が盛んでコロールにも基地があり、冷凍保存のための製氷工場があって、そこで氷を仕入れていたのでしょう。
 結婚翌年には長男が生まれ、長女、次男、三男も生まれますが、長女と次男は生後1年足らずで病気で失いました。三男は健康優良乳幼児として第1回表彰を受け、その表彰状は経年劣化で黄ばんではいますが今も三男の手元にあります。表彰式当日の集合写真も残っていて、当時のコロールの日本人社会の庶民の様子を知る貴重な資料ではないかと思います。
 親の借金のためパラオに出稼ぎに渡り、そこで青春を送り結婚、子供にも恵まれ商売も安定・・・そんな平穏な日々はしかし、太平洋戦争によって失われました。1944年、当時43歳だった夫は現地召集され、婦女子と老人は内地へ引き上げるよう勧告されます。終戦の1年前すでに戦況は悪化し、無事に日本まで帰れる保証はありません。帰国を断念し戦火の本島を逃げ回り、餓死した移民も大勢いたようです。
 30歳の母は8歳の長男、2歳の三男を連れ、パラオで築いた財産のほとんどを残したまま引き揚げ船に乗ることになります。船団は4月に輸送船4隻、護衛艦2隻でコロールを出発しますが、途中で米軍の潜水艦に見つかり魚雷攻撃を受け1隻が沈没。
その時の様子を母は、「波のうねりのおかげで乗った船の下を魚雷がすり抜け、横にいた別の輸送船に命中した」。魚雷命中の衝撃で乗った船も大きく揺れ、片手で長男の手を握り三男を抱えていた母は思わず甲板に両ひざから崩れ強打したといいます。それが遠因になったのか最晩年にはリウマチで両ひざの痛みに悩まされていました。またその時の様子では、護衛艦から潜水艦めがけての反撃はまるで花火を見るようだったといっていました。
 戦闘中にもかかわらず民間人が甲板にいたというのを不審に思うと、万一船が沈むようなときはすぐに海に飛び込めるようにせよと言われていたからと。経験した者でないとわからないものだと思ったものです。
 残る船団はサイパンかどこかに避難し、あらためて日本に向かったとのことでしたが、あとで調べてみると一旦パラオに戻っていたようです。船団はその後無事に横浜に入港。そこから母たちは陸路故郷の佐賀を目指しました。
 余談ですが、この時の引揚げでは別の輸送船に、タレントの今田耕司さんのお母様も乗っておられたとの事。3年前にNHKのファミリー・ヒストリーで再放送されたものが、YouTubeの動画にアップされていました。
https://www.youtube.com/watch?v=VgS-TkwDtoE
https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/23759/955192/
 母から聞いていた引揚げ船での話の内容と、放送の内容が一部異なっているのは、おそらく私の聞き違い思い違いによるものなのでしょう。当時はメモも取らず聞き流していましたから。今にして思えば悔やまれますが、母が亡くなった今では聞きなおすこともできません。
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商売の関係からか結婚式はパラオで挙げています
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コロールの繁華街の一角にあったという店
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1944年に写されたもの。
夫は招集され母と子供は引揚げという状況で撮られたこの写真が、家族揃っての最後の1枚になります。
夫の表情からは希望の見えない戦争に駆り出されることへの諦めが滲んでいるよういるようにも見えます。

2019年4月11日 (木)

今日の太陽 2019/4/11

風が強く雲の流れが速い1日でした。
おかげで昼過ぎまで安定した晴れ間を確保できず。
今日は朝からパソコンのネットがつながらず、メールソフトも接続拒否。
デスクトップパソコンは有線LANでつないでいるので、サーバー側に問題でも起きているのか?
しかし、無線LANでつながっているノートパソコンではネットにつながるではないか!
何が起きている?
そういえば、最近頻繁に無線LANが落ちる状態が続いていたが、それと関連があるのか?
ルーターの電源を一度落とし再起動させたり、LANプラグを抜き差ししていたら突如つながりました。
夕方になって処理の済んだ太陽画像をアップしようとしたら、またネットに繋がらない!
メールソフトもダメ!
朝と同じことを繰り返していたら、また突如としてつながって今現在この記事を書いているところ。
NTT西日本からレンタルしているルーターに不具合が起きているのかもしれません。
早急にNTTに連絡を取ったほうがよさそう。
 
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黒点の黒も半暗部のグレーもはっきり見えています。
4/9に見えていた黒点東側の白斑は確認できません。
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3時方向のプロミネンスが派手になってきました。

なぜパラオに行くことになったのか 2

(最初にお断り) 掲載の写真は新聞記事にも使われたものですが、個人的なものなので転載、コピー保存など無断でのご使用は固くお断りします。

 さて、1929年、母は16歳のころに、先にパラオで写真家として生計を立てていた義理の叔父を頼って、佐賀県から単身パラオに渡りました。いわゆる出稼ぎです。今は飛行機で最短4時間ほどで直行できるパラオですが、当時は船旅で5日はかかったそうです。
 戸籍謄本によると母の出生地は福岡県、生年は大正2年(1913)になっていますが、本人は大正元年に佐賀県で生まれたと言い、親の都合で出生届が1年遅らされたと言っていました。今と違って生後間もなく死亡する乳幼児が多かった時代では、そういうことも珍しくはなかったのでしょうか。
 父親は当時講談師をしていたそうで、収入が安定しないうえ大酒のみだったため借金が相当あり、長女として生まれた母は小学校を1年で中退させられ子守り奉公に出されたと言います。
 母親は母が5歳の時に亡くなっていますから、母親の死後1年ほどで親元を出されたことになります。NHK朝ドラ「おしん」を想起させる話ですが、奉公先ではかわいがられたようです。それは逆境にあっても決して下を向かない母の性格が関係していたのかもしれません。勝気というわけでもなく能天気で天真爛漫というわけでもない。苦労は苦労として愚痴ることがあっても、いったん口から出たらそれでおしまい、嫌なことはいつまでもぐずぐずと引きずらない切り替えの早さというべきか。
 数年ののち年季が明けて実家に戻る途中、駅で見知らぬ男性から声を掛けられ危うく連れ去られるところを、異変に気付いた女学生の機転に助けられ事なきを得、そのひとの元にしばらく身を寄せることになりました。恩人の女学生は耶蘇教(いわゆるキリスト教)関係者の家庭の方で母は晩年まで「山下先生」と呼んで慕っていました。
 しばらくはお手伝いとして働いていたあと16歳のころ、父親の妹の夫である義理の叔父がパラオで商売をしていることから、そこを頼って出稼ぎに行くことを決心しました。当時は日本で働くよりパラオの出稼ぎの方が収入が多く、例えば大学出の初任給が国内では50円だったころ、パラオでは75円だったそうです。それだけ当時のパラオは活況で豊かだったということです。
 しかしいくら現地に親戚がいるとはいえ、16歳の少女が単身で遥か南方の島に出稼ぎに出るとは、それなりの覚悟を持っての事だったでしょう。
 パラオでは病院で産婆さん(助産師)の手伝いとして働き、収入のうち少なからずの金を親元に仕送りしたそうで、その額は合計すると小さな家なら1軒建つほどだったと言っていました。産婆さんの手伝いというのも、学歴は無いものの子供のころから子守りをはじめ、他人の中で働き続けてきたことが役に立っていたのでしょうか。
 17、8から20歳前後の青春真っ盛りのこのころの写真が多く残っています。写真家であった叔父が姪をモデルに写真を撮っていた節があります。そんな中の1枚、パラオ人の少女と一緒に写った写真がありますが、別にその少女だけを撮った写真の裏には、「パラオ美人花子嬢」と書かれており、のちにパラオで当時行われた美人コンテストで優勝した女性だったことが分かりました。彼女は戦後、病気療養で滞在先のグァムで29歳で亡くなったとパラオ訪問の時に知りました。美人薄命だったんですね。
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母と花子さん
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日本人移民の若者やパラオの若者と一緒に写っているのはこの1枚だけ

 

2019年4月10日 (水)

なぜパラオに行くことになったのか 1

 年初に短期間ながらパラオを訪問してきました。自らのルーツにかかわる旅でもあったので、いずれ文章にまとめるつもりでいるのですが、極めてプライベートな内容を含むそれをブログに上げるのが良いのか悪いのか、迷いつつ文章力のなさを言い訳にずるずると引き延ばしていました。
 しかしもともと記憶力が悪いうえ、先延ばしにするほどに旅行の記憶があいまいになってしまうので、これではだめだと思い記憶の残っているうちにとりあえず文字にしておき、後日改めてちゃんとした文章に書きなおすことにしようと考えなおしました。
 
 母の半生については、私の若いころから何度も話を聞いていたのですが、「今どきの若い者」の例に漏れず、親の人生に何ほどの関心も示せず、ただ聞き流していていたせいで、今では記憶も朧気で曖昧、思い違いなども多々あってどこまでが聞きかじりによる事実で、どこからが思い違いによる創作なのか判然としません。
 しかしそんな記憶の糸を手繰り寄せることになったのは、私自身が70歳を目前にして終活を考え始めるにあたり、母が亡くなって14年、徐々に処分してきた遺品の中でも、手が付けられなかった写真をどう処分するか、特に戦前の写真に写る異国の風景や人々のことが気になりだしたことから。
 母が戦時中のパラオから命がけで持ち帰った写真、そこに写っている人たちの家族にこの写真を手渡せないものか、地元の新聞社に相談を持ち掛けたところ、思いがけず記事にしていただき、そこから人の縁が生まれ、思いもしなかったパラオへの訪問が実現したのでした。
 
 パラオは日本からはほぼ真南に約3000km、北緯7度、東経134度付近にある太平洋上の大小約200ほどの島からなる小さな島国で、全部の島を合わせても屋久島ほどの面積にしかなりません。
 本島と呼ばれるバベルダオブ島が一番大きく、首都マルキョクや国際空港もこの島にあり、国土の7、8割程度を占めています。その南側に隣接するコロール島がパラオの中心で、全人口2万人ほどの約8割以上がこの島に住んでいます。2006年10月までこの島に首都がありました。
 現在はダイビングや観光資源で成り立っている国ですが、75年前までは日本の統治下にありカツオ漁やリン鉱石の採掘も盛んだったようです。南洋と呼ばれるこの一帯を統治する南洋庁がコロール島に置かれ、コロールがパラオの中心となる礎になったのでしょう。
 パラオが国際的に知られるようになったのは、16世紀の大航海時代にスペインによりミクロネシアの一部として発見されたことから始まり、19世紀末にドイツに売却されるまでスペイン領でした。1914年に第一次世界大戦が起きると、日本は連合国側についてドイツに宣戦布告し、終戦後に信託統治権を手に入れ実質的に植民地としました。
 スペインやドイツ領の時代にはリン鉱石の採掘を細々とやるぐらいで本国からあまり重要視されず、白人によるほかの植民地同様、原住民であるパラオ人も人間扱いされることがほとんどない状態だったようです。しかし日本の統治が始まると現地人のための学校を作ったり、病院や道路といったインフラ整備に力を入れ、それまで漁業のほか生産手段を持たなかった現地人に農業を教えるなど、自立支援を行いました。
 これは人道的支援という側面のほかに、同化政策による高レベルでの労働力確保という目的があったのでしょう。その証拠として現地人の教育は小学校までで、特に優秀な子供だけは内地(日本本国)の中学校に留学させるものの、あとは入植者の手伝いや勤労奉仕につかせ、成人の仕事も日本人の補助的なものに限っていたようです。
 それでもそれまでの白人支配の時代に比べ、より人間扱いし自立自活の道筋をつけたことで、戦後70余年が過ぎた今でも親日感情はとても高いとのことです。
 日本による統治が安定した1920年ごろになると、現地人を上回る2万5000人以上の日本からの移民・入植者があり、コロールの中心街は日本の商店が軒を連ねる繁華街になっていったといいます。

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昭和13年ころのコロール市街地図。
日本統治によりもっとも繁栄していたころ。

2019年4月 9日 (火)

今日の太陽 2019/4/9

透明度の良い晴れ。
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半暗部を伴った黒点は今日も健在です。
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黒点の東側にはプラージュがはっきり確認できます。
プロミネンスは3時方向に目立ったものが出ています。

2019年4月 8日 (月)

今日の太陽 2019/4/8

深夜に降った雨も上がり気持ちの良い晴れになりました。
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先月に成長しながら西に隠れていった大黒点が、約2週間ぶりに東に帰ってきました。
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Hα光でも確認できます。
プロミネンスは3時方向と11時方向に目立っています。

2019年4月 7日 (日)

今日の太陽 2019/4/7

白っぽい空色の晴れ。
透明度はよろしくないが晴れ渡っているので今日も観望と撮影をしました。
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昨日の黒点はコントラストを上げても見当たりません。
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プロミネンスはそれなりに出ていますが、透明度が悪いのですっきりと見えません。
撮影だけして府議会議員選挙の投票に、そのに続いて買い物に出かけてきました。

2019年4月 6日 (土)

今日の太陽 2019/4/6

雲がないように見えるのですが、空全体の透明度がよくありません。
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黒点は無し・・・と思ったんですが、かひちやうさんとこの画像を見ると小さいのが出ているようです。
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改めて強調処理でコントラストを上げると確かに・・・すごく淡いです。
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黒点のあたりには活動領域があるのが分かります。
プロミネンスは3時方向と9時方向に今日も健在でした。

悪い冗談?

昨日ブログにド根性桜を紹介しましたが、植物関連でもう一つ。
時折カメラを片手に近所を散歩しますが、先日は正道官衙遺跡公園をぐるりと一回りしてきました。
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遺跡公園に行く途中には西洋タンポポがあちこちに咲いていました。
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遺跡公園の入り口には万葉集の歌碑があります。
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公園内の周回道路には多様な木が植えられており、それぞれの木にちなんだ歌碑が添えられています。
こんな感じです。
 
で、その中のひとつの歌碑の横には・・・。
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「なし」だから木も切られて無し?
これは悪い冗談でしょうか。

2019年4月 5日 (金)

今日の太陽 2019/4/5

暖かい陽気の晴れ。
でも薄雲があります。
薄雲の時はどうしても画質が落ちるので、最近は撮影をしていないのですが、今日は久しぶりに強行してみました。
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9時方向と3時方向に目立つプロミネンスがあります。
11時方向のものは消えてしまいました。
 
数日前のテレビニュースで、去年の台風で倒れてしまった京都の名所の桜の木に花が咲いたと言っていた、と家人から聞きました。
そういえば我が家の近くの桜の木も、あの時の猛烈な暴風で根こそぎやられて倒れていたけど、やはり今年も花をつけていたと気が付き、今朝撮りに行ってきました。
ド根性桜です(笑)。
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いつまでもこのまま放置されるわけにはいかないだろうし、いずれ近いうちに伐採されてしまうのでしょうね。
もちろん倒れずに頑張って花を咲かせた木もありますよ。
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2019年4月 4日 (木)

今日の太陽 2019/4/4

快晴。
朝一番で宇治徳洲会病院に診察を受けに行ってきました。
先日のホルター心電図の結果は・・・問題なしとのことで、また1年後の診察までおとがめなしになりました(笑)。
寄り道せずまっすぐ帰宅しお天道さまを観望&撮影。
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先日来の黒点は? 接眼鏡をのぞいても見当たりません。
カメラモニターを通して拡大するとやっと見えるぐらい淡くなってました。
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画像処理で思い切りコントラストを挙げると、やっと画像でも確認できる程度。
期待外れでした。
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Hα光でもプラージュはわかりにくくなっています。
それに引き換えプロミネンスの方は9時方向が派手に出ています。
11時方向にもひょろ長いのが見えています。

2019年4月 3日 (水)

動画を作ってみた

小学生ぐらいを対象に、自前の画像でお月さまの豆知識を動画にしてみました。

最初はパワーポイントで作ってスライドショーにしてみたんですが、紹介文をナレーションに置き換え、次にパワーポイントの無い環境でも見られるよう、ついでにBGMも付けて動画にしてみたら、YouTubeにアップしてみたくなり、とうとうブログに貼り付けてるところまで来てしまいました(笑)。

ブログのままでは画面が小さく、かといって全画面表示では粗くなってしまうので、出来れば全画面表示[ ]の左隣の[YouTube]をクリックして本来のサイズで見ていただければ・・・。

ナレーションのアクセントの不自然さが気になりますが、音声合成ソフトの作成なのでこれはご愛嬌ということで(苦笑)。

今日の太陽 2019/4/3

晴れていますが日向ぼっこにはちと寒いです。
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小さな黒点群は昨日よりはっきりしてきたように見えます。
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11時方向のプロミネンスは形が変わっていました。
5時方向にも淡いものが出ています。

2019年4月 2日 (火)

今日の太陽 2019/4/2

予報外れの晴天です。
しかし雲の流れも速いので、いつ曇ってしまうかもしれず、早めの観望&撮影となりました。
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左上の方に新たに黒点が出ています。
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11時方向にひょろ長いプロミネンスが見えます。
黒点のある周囲にはプラージュが出ています。

 

2019年4月 1日 (月)

月齢13.6シリーズの最後はアルタイ壁

早朝は晴れていましたが次第に雲が増え、太陽が裏庭から見え出すころには手遅れ。
おまけに寒かった昨日よりさらに冷え込み、暖房のない室内は10度を下回っています。
さぶー
月齢13.6シリーズもとうとう最後の1枚になりました。
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正面から太陽光を受けているのでほぼ影がありません。
地名の特定が難しいので、一番わかりやすいアルタイ壁とラビ・レヴィクレーターにのみ名前を付けました。

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