今日の太陽 2019/4/26

« 2019年3月 | トップページ | 2019年5月 »
食事を終わってホテルに戻ると、Tさんが10月のパラオ行で見つけてくださった、残る2組の家族と会えるよう、M君に頼んで電話連絡を取ってくれます。しかし、留守だったり電話に出た相手の要領が得なかったりで、なかなか連絡が付かないまま時間だけが過ぎていきます。
この時点で、私としては母との接点がはっきりしていた花子さんの家族に会えただけで満足していたし、何よりウエキ氏から母たちの生活の一端が、間接的ながらも知れたことが何よりの収穫だったので、それでもう十分との気持ちでした。しかし消極的な私に代わってTさんはこのまま諦めるのはもったいないと、ぐいぐい背中を押してくれるのです。
すっかり暗くなった18時前、ようやく片方の家族と連絡が付きました。写真では草原に一人ぽつんと立つ男性が写っているだけで、顔もはっきりわからないので、10月にTさんに写真を託した時もその縁者を探すのは無理だろうと思っていたのですが、こちらに来て写真を見せると案外すぐに誰かというのが分かったそうです。男性はすでに亡くなっていましたが、彼の姪のレイチェル・テルコ・ベチェスラークさんがコロールで健在だったのです。
遅い時間なので押し掛けるのもどうかと思ったのですが、先方がウエルカムというので、急いでタクシーでその方の家を訪問。リビングでテルコさんとひと時の歓談を持つ事が出来ました。
ホテルに戻り、残る一組の家族に再び電話攻勢。あとで思うに、ひょっとしてTさんが私に一番合わせたかったのがこの家族だったのかもしれません。
少し微笑んでいるようにも見えるワンピース姿の少女が写った写真。母との接点は分かりません。でもパラオでこの写真を見せたら、誰もが知っているという有名人の少女時代のものでした。私は今回の一連の流れで知ったばかりでしたが、中島敦という作家が戦前のパラオに一時期滞在した時知り合い、短編「マリヤン」のモデルとしたマリア・ギボンさんだというのです。
中島敦が滞在した時期とその時のマリア・ギボンさんの年齢、母の年齢を重ね合わせると、ひょっとして母との接点というより、写真家の叔父のほうに接点があって写真を撮っていたものを母が譲り受けていた、とみるのが正解のように今は思えるのですが。
21時半を過ぎたころ、マリアさんの娘でパラオで2人しかいないという女大酋長グロリア・ギボン・サリーさんとようやく連絡が付きました。酋長という言葉からは一般的に未開の民族の男性権力者というイメージがあると思うのですが、母系社会のパラオでは尊敬を集める王族階級の女性という意味合いがあるらしく、現にグロリア・サリーさんはパラオでは「クイーン」とも呼ばれる人物だそうです。
会いに行く手はずで家までの道順を聞いていると、ホテルまで迎えを寄越すとのこと。外に出てしばらく待っていると、四駆の大きな車が入ってきて、運転手兼秘書?の女性とともに降りてきたのが当のグロリア・サリーさんでした。夜の遅い時間に向こうから出向いてくれたことにまず感謝。Tさんとの再会のあいさつの後、私が紹介され、ロビーで写真を見てもらいながら歓談。
パラオ人の写真で、まだ所在が分からないものについて、何か手掛かりをご存知ないかと尋ねてみると、一人については意外にもすぐに、この人はKiyarii Delutaochさん 子どものCarl Delutaochさんが博物館に至る道のすぐ近くに住んでいる、とすらすらと答えてくれました。もう一人については、多分この人で間違いないと名前は教えてもらえましたが、消息まではご存知ないようです。話しぶりから何か曰くありそうな雰囲気を感じて、それ以上突っ込んで聞くことはできません。1時間ほども話していたでしょうか、名残惜しく別れ帰って行かれました。
今回のパラオへの旅で期待していた事は100%、いや200%満たされた気分でした。もっと時間と経済的余裕ががあれば、母の夫、兄たちの父親が戦死したペリリュー島にも行きたかったし、最終日の最後に判明した人物の家族とも会う事が出来たかもしれません。しかし、それは現時点では果たせぬこと。写真に写る日本人の手掛かりはまだ誰一人ありません。
帰国に向けて荷物をまとめ、しばしの仮眠をとることにしました。
ふと目が覚めると日付は1月10日。出発時間と決めていた午前1時半になっています。慌てて部屋を出るとTさんたちはすでにロビーで待っていて、予約してあるタクシーも到着していました。3人とも私を空港まで見送りに来てくださるとのこと。
外は雨です。タクシーで一路コロール空港へ。
中国や韓国からの団体さんでいっぱいの受付カウンターを横目に、スムーズに手続きを終え、Tさん、Yさん、M君、それに初日からずっと世話になったタクシー運転手のおじさん(ごめん、名前をしっかり覚えてなかった)の見送りに手を振って、搭乗ゲートへ。
4時10分の予定をやや遅れて離陸。予定通り9時仁川到着。空港内のフードコートで昼食をとり、13時10分仁川出発。15時無事関空に到着。何事もなく手続きを終え入国。南海電車、JR大和路快速、JRみやこ路快速を乗り継いで、18時前に帰宅。
こうして私の5泊6日のパラオの旅は終わりました。
かつて多くの日本人移民が暮らし、やがて戦場となった日本から南に約3000kmの小さな島国パラオは、私にとって遠くて近い国です。日本が統治した時代を知る人はどんどん減っています。かつて日本人が建てた家屋はほとんど残っていません。パラオ語とともに公用語だった日本語も今や英語に変わっています。
しかし、かつての公用語で今の日本では死語になっている言葉が、パラオ語として今も使われています。例えば日本ではブラジャーと言っている女性の下着が、パラオではチチバンドとして通じるのだそうです。大正生まれの母が使っていた言葉です。
パラオでは現在外国人が単独で土地を取得したり商売することは禁じられています。コロールでは中国資本がどんどん入り、99年租借で土地を得てパラオの富裕層と共同でホテルやレストラン経営を行い、そのあおりで賃貸料が高騰して中小規模の日本人経営者は苦戦しているそうです。旅行客も中華系や韓国人の方が日本人よりも多いそうです。日本人旅行客が減ったことで日本からの直行便は今はもうありません。
しかし、今もパラオの人たちにとって日本は特別な国、日本人は敬愛を持って迎えられる存在のようです。日本人ももう少しパラオに目を向けてもいいのではないでしょうか。そしてTさんたちが行っている、バラマキではなく彼らの自立のための地道な支援活動が大きな実を結び、この良好な関係がいつまでも続いてほしいと願うばかりです。
最後に。
新聞記事にしてくださったことで今回の一連のきっかけを作って頂き、さらに多くの貴重な情報を教えて頂いた京都新聞南部支社長の大橋様。
ベラウ国立博物館に写真を寄贈する橋渡しをしていただいた台湾のパラオ民俗研究者陳様と京都大学職員内堀様。
パラオでの関係者探しに尽力頂き、旅の手配から現地で背中を押し続けるなど何から何までお世話になったNPO法人愛未来の理事長竹下様。揺れ動く気持ちに優しく寄り添って下さった山崎様。通訳を引き受けて遠い昔の話に付き合ってくれた佐賀大学の松本君。
旅の中で知り合いお世話になったたくさんの方たち。
そして、一庶民のファミリー・ヒストリーの長い駄文に付き合っていただいた皆さんに感謝。ありがとうございました。
昼近くになって昼食の調達にYANO惣菜店に行くことになりました。私だけその手前で降してもらい、昨日ウエキ氏から聞いた高橋商店のあったあたりの写真を撮ることに。
目印となるギフトショップ「ルー」は、実はこちらに着いた当日に一度訪れていた店でした。日本を発つ数日前にメールを頂いていたパラオ諸島戦史研究会のYさんから、パラオで生活している二人の日本人女性を紹介され、戦前の日本人の生活に関心がある人たちなので、向うに行ったらぜひ会ってみてくださいと勧められていたのです。その一人が「ルー」で仕事をしているTさんでした。店を訪れた際母の記事が載った新聞のコピーや写真を見せ、髙橋商店の売り物の一つにかき氷があったように、この店でもかき氷をやっていたので、それを注文して食べたのです。75年以上の時を隔てて同じ場所でのかき氷。これも何かの縁でしょうか。
もう一人の女性とも昨日お会いしていて、その方は日本地雷処理を支援する会(JMAS)に勤務するOさん。彼女からは当時の日本人社会を知る年代の方として、ウエキ氏とともにマサオ・キクチ氏のことも教えてもらいました。残念ながら滞在中の時間の制約もありお会いするに至りませんでしたが。Oさんは前日まで日本にいて今日パラオに戻ってきたところだったそうで、このタイミングも何かしらの縁を感じたものです。
Yさんから話を聞いたときは中高年の女性だろうと想像していたのですが、お二人とも20代から30代と思しきとてもチャーミングな方たちでした。
滞在1日目の夕食場所に選んだカープレストランは、旅行パンフやネットでもよく知られたパラオの名物レストランです。いわゆる大衆食堂の部類ですが、値段が手ごろなうえ量が他所の店の1.5倍はありそうなボリューム。そしてこの店のオーナーの奥さんが何よりの名物とのこと。年配のご夫婦とも日本人ですが、ご主人は野球の読売ジャイアンツのファンなのに対し、奥さんの方は広島カープのファン。奥さんの主張が通って店の名前をカープにしたそうです。この奥さんがまた気さくでよく喋る。
このカープレストランのオーナー岸川さんのお父さんが母と同じ佐賀県の出身で、戦前のパラオに出稼ぎに来ており、終戦時のアメリカによる日本人強制退去の際、孤児になっていた知り合いの日系パラオ人の少年を連れて故郷の伊万里に引き上げたそうです。この時の少年については少し詳しく後述します。
夕食から満腹で戻り、前日ほとんど寝ていないこともあってすぐに就寝・・・ところが2時間ほどで目が覚めてしまい、これ以上寝られそうになくて外を見ると星空! 早速カメラと三脚をもって、ホテルの近くの岸壁に出かけました。この時をはじめコロールに滞在中に撮影した星の写真については、1月のブログでアップしています。
1月7日。最初の公式訪問先はパラオ国立博物館。
地元紙・京都新聞に大きく紙面を割いて記事にしていただき、Web紙面でも取り上げてもらったことが、台湾在住のパラオ民俗学研究者の目に留まり、その友人の京都大学事務職員U氏を通じて、これまで見たことのない写真なのでぜひ国立博物館に寄贈されてはどうか、とのお話をいただきました。正直なところその扱いに迷い、いずれは破棄することになるかもしれないと思っていた写真だけに、パラオの博物館で展示保存していただけるなら、それが一番いいかもしれないと兄とも相談。
最初は郵送するつもりでいたのですが、急遽パラオ旅行がまとまったので直接手渡すことになりました。当初博物館の方では小規模ながら贈呈式を予定し、地元新聞社も来るよう手配するとのことでしたが、そういう事に不慣れで堅苦しいことは苦手なので、出来るだけ簡素に願いたいと伝えていました。
受付で来訪を告げると、気さくなおじさんという印象のサイモン・アデルバイ氏が応対。ロビー横の喫茶室で寄贈する写真のそれぞれについて確認することに。事前にリストにしてU氏経由で渡してあるので補足的な話をし、屋外に出て記念撮影。そのあと館内の展示物を案内してもらい再び喫茶室に戻ると、今度は少し年配の男性が待っていました。
アデルバイ氏から副館長のスコット・ヤノ氏と紹介され、再び写真についてのいきさつなどを話しながら歓談。今度も屋外に出て記念撮影も。ヤノ氏が日系なのかどうか名前だけではわかりませんが、日本の姓を名乗るのは日系人だけでなく、日本の植民地時代に、世話になったり親しくしていた日本人の姓を付ける純粋のパラオ人もいたとか。今ではアメリカ的な姓や名前を付けている人も多いようで、これも時代の流れでしょう。もうひとつ。前日昼食を買い求めた惣菜店YANOはヤノ氏の弟が経営しているとのことでした。
昼を過ぎたころになり、そろそろお邪魔しようとしていたら、副館長の指示で特大のハンバーガーが出され、遠慮なくごちそうになってから退出。
昼を過ぎ、ドクター・ミノル・ウエキ氏に会いにマラカル島に移動。しかし、事前にアポを取っていなかったのか生憎不在。出直すことになります。
ミノル・ウエキ氏について私は全く情報を持っていませんでしたが、Tさんの話では前述のカープレストランオーナーのお父さんが、終戦後に連れて帰った日系パラオ人の少年だということです。彼は日本に引き揚げた後、中学校に通い日本の教育を受けます。数年後、帰国が叶いパラオに戻り、さらにアメリカにわたって医学を学び、ふたたびパラオに戻り国立病院で医者として勤務、のちに政治家となり日本へはパラオ大使として3年間赴任経験もある、努力家の秀才という人物。日本との国際交流で貢献大ということで昨年秋の叙勲で旭日重光章を受けられたとのことです。
そんな人物と一介の民間人に過ぎない私が気安く会えるのかと不審に思いましたが、彼なら少年時代に戦前の日本人社会を知っているので、何か手掛かりの話が聞けるかもしれないと、Tさんの提案で進めていただいていました。これもTさんの顔の広さです。
1月6日は日曜日。公式訪問の相手先はいずれも休みなので、朝食までしばし仮眠を取り、食後にはこれからどう行動するかTさんたちと打ち合わせ。TさんとYさんは2週間強の滞在のうち、農業支援のため現地の各方面と会合や打ち合わせの予定が詰まっているのですが、私が滞在する1週間弱の間はこちらの予定を優先していただけるとのこと。M君の方はホームスティと研修が1週間先から始まるので、彼も私に付き合って通訳を引き受けてくれることになりました。
打ち合わせが済んで昼近くになったので、Tさんの案内でコロールの中心街を見学に行くことに。空港のある本島バベルダオブ島からコロール島を貫いて、隣接するアラカベサン島とマラカル島に至る幹線道路沿いのコロール島の真ん中あたりにホテルやスーパーマーケット、土産物店が並び、警察署、郵便局、銀行などの公共施設もあります。
しかし、パラオ唯一の繁華街とツアーのパンフレットなどには紹介されているものの、感じたままを正直に言えば、日本の地方都市の駅前商店街といった印象。幹線道路が広く、間口の広いお店が間隔を広くとって並んでいるのと、全体に建物が古い印象があって全体としてそう感じたのかもしれません。
車は間断なく通るのですが信号機は見かけません。横断歩道もなく歩く人もまばら。パラオ人の人口が少ないのと、観光客の目的はほとんどが海なので、ダイビングから戻ってくる夕方からが活気づいてくるのでしょうか。
一番大きなスーパーマーケットのWCTCに入りぐるりと一回り。棚に並んでいるフルーツや野菜など一部の地元食材以外はほとんどが輸入品。特に目立つのがアメリカの商品で、次に多いのが日本の商品。東南アジアからのものも目につきました。観光資源以外これといった産業がなく、アメリカと日本の経済援助に頼っているのが現状らしく、物価は日本とほとんど変わらないようです。
かつて日本が入植し先住民に農業を指導したというのも今は昔。敗戦で日本人が引き上げアメリカが信託統治するようになると、経済支援はするが自立のための支援はしない政策をとります。日本の教育を受け農業をしていた人たちも、時とともに老い彼らの子どもの代になると多くは自生しているイモ類を主食に、いつでも手に入るフルール類を食べ、自分達が食べる分だけ漁で魚をとるといった、元の生活スタイルに戻ってしまったようです。あくせく働かなくても食うに困らないし、経済支援を受けているからそこそこのレベルの生活ができるというわけです。
酋長と呼ばれる昔からの名家の一門、いわゆるエリートでインテリ層である人たちは国の将来を考え、外国資本を呼び込んで提携し観光産業に力を入れ、あるいは自立のため農業振興、養鶏などに取り組んでいて、NPOのTさんの支援活動もそうした流れの中にあるそうです。しかしパラオ人の国民性と、かつての日本のような半強制的な手法は現在では通用しないので、なかなか難しいことのようです。
もうひとつ、農業支援がはかどらない原因が土地問題にあるとのこと。戦前に日本人によって開墾された土地は土地台帳で管理されていましたが、戦争によって失われ、その後の混乱もあって、土地の所有者が誰なのか今もって争われている場所が多くあり、うかつに支援に入れないのだとか。
またしても話が逸れてしまいました。
WCTCを見学後もいくつかの食料品店を見てまわったのですが、その1軒で思わぬ出会いがありました。前年の10月に預けた写真をもって人探しをしてくださったTさんですが、その時見つけてくださっていた3組の家族のうち、パラオ美人花子さんの孫夫婦が買い物に来店していたのにTさんが気づき、その場でご対面。この時は軽いあいさつ程度で済ませたのですが、2日後、もう一度会うことになります。
さて、歩き疲れてきたのでそろそろ昼食をということでWCTCまで戻り、隣のYANO惣菜店で食料調達。手軽に安価に済ませるときに便利な店と、ネットの観光案内でも紹介されている店です。値段と量を見て納得。せっかくだから現地食を食べたいと言ってタピオカや鶏肉の総菜を買って、ホテルに戻り遅めの昼食にありつきました。
昼食後はホテルの周囲を散歩したり部屋で休憩したり。
昼食を安上がりで済ませたので、夕食はTさんのなじみのレストランですることになり、タクシーでマラカル島にあるカープレストランへ。このレストランは旅行前にネットで調べていて私が一度は行きたいと思っていた店でした。ちなみにパラオでは鉄道や公共交通機関はないので、少し距離のある移動はレンタカーを利用するか、事前交渉で運賃を決めるタクシーを利用することになります。
カープレストランについては次回に。
外国語は全く苦手。英語も読み書きともダメなので一人で海外に行った経験がなく、そのうえ国内旅行でも個人で飛行機を利用したことがない。そうした旅行はすべてツアーか社員旅行での経験。こんな消極的な人間なので佐賀県の方からパラを行きを誘われ、合流は韓国の仁川空港で、と聞いた時には正直小さな子供が初めてのお使いに出されるときの気分。
幸い航空券や現地での宿の手配は、何度も渡航の経験のあるその方のなじみの旅行社でしていただけることになり、自分ではパスポートの取得と旅行保険を掛けることぐらいで済みました。体力に自信がないので荷物はできるだけ少なくコンパクトを心がけ、機内持ち込みサイズのキャリーケースを購入。博物館に寄贈する写真、昔のコロールの地図と現在の衛星写真のプリントなど、旅の目的に必要な資料類。5泊6日になるので必要最小限の着替え類など。せっかく南の島に行くなら南十字星も見たい撮りたいということで、コンパクトなトラベル三脚を新たに購入。
海外旅行の経験豊富な人から見れば笑ってしまうような些細なことまで、これは空港で機内持ち込みをとがめられないか、それはダメかもと迷ってはネット検索で調べ、持っていくものの取捨選択をしているうちに日が過ぎ、年が明けてしまいました。一方で戦前と現在のパラオについての情報も、抜かりなく本やネットで調べておきます。
1月5日。空港での出国諸手続きに手間取って飛行機に乗り遅れるようなことがあっては大変と、フライト予定時刻より相当早めに関空に向けて家を出発。今回旅行に誘っていただいた佐賀県の方とは仁川空港で落ち合うことになっているので、そこまでは何としても自力で到着しなくてはならないと、ある種悲壮な覚悟でしたが、案ずるより産むがやすし。何事もなくスムーズに手続きを終え、飛行機の出発まで退屈な数時間を過ごすことになってしまいました。
乗る予定の飛行機の到着が遅れ、出発も予定より20分ほど遅れましたが、仁川での乗り継ぎにも十分時間があるので焦ることなくフライトを楽しむことに。思えば社員旅行で沖縄に行って以来10年ぶりに飛行機への搭乗です。
一昨年の夏ごろまでは日本パラオ間にも定期便があったそうですが現在はなく、韓国の航空会社を利用して仁川経由、台湾の航空会社を利用して台北経由、アメリカの航空会社を利用してグアム経由の3択になり、今回は全行程アシアナ航空を利用します。機内アナウンスは基本韓国語ですが、仁川までは日本航路なので日本語でのアナウンスもありこれも安心。でも座席周囲は韓国語が飛び交っています。
2時間の飛行ののち無事に仁川空港に到着。長い通路をひたすらキャリーを引きながら乗り継ぎカウンターを目指します。幸い同じターミナル内の移動で済んだのですが、それにしても東アジアのハブ空港というだけあって広い。途中、乗り継ぎセキュリティチェックの関門も無事クリア。予定では福岡空港からの便はもう到着しているはず。待合わせの乗り継ぎカウンターに急ぎますが、まだそれらしい人物は見当たりません。
しばらく椅子に掛けて待っていると、メールのやり取りから写真で見知ったTさんが到着。Tさんの友人のYさん、佐賀大学の学生M君もご一緒。Tさんは佐賀県庁で公務員をされた後、パラオやスリランカに支援活動をする国際交流NPOを立ち上げたという、行動力抜群の女性。Yさんは70代の女性ながら好奇心旺盛で中年過ぎて英語を習得されたとのこと。M君もTさんの知り合いで、今回パラオで3か月間研修する目的で、急遽ホームステイ先のオランダからいったん帰国しての同行とのこと。このM君が今回の旅で通訳を買って出てくれました。
パラオ行きの搭乗手続きまで十分時間があるので、遅い夕食を取るとにし食事をしながらしばし歓談。とてもついさっき知り合ったばかりとは思えない気さくさで話が弾み、心の片隅に残っていた今回の旅への一抹の不安も消え去っていました。
私が中学を卒業するころには、ようやく生活も安定するようになっていましたが、まだまだ経済的余裕はありませんでした。もともと成績が悪く頭が良くないのを自覚していた私には高校へ進学する気はなく、中学卒業後に就職するつもりでいましたが、親しくしていた級友が定時制高校を受験すると聞き、付き合うつもりで受験したところ何かの間違いで合格してしまい、昼間は会社で仕事、夕方から高校生という生活が始まりました。なにがしかの生活費を家に入れ、学費ももちろん給料から賄うという疑似自立のスタートでした。
母と末弟である叔父が再会を果たしたのは、私が就職して初めてのボーナスで母の里帰りを後押ししてから1年ほど後のことでした。故郷にもう実家はなく異母弟妹たちはすでに亡くなっているか消息不明の状況。親せきを訪ね、恩人山下先生のお宅を訪ねるだけの旅でしたが、その親せきからの連絡で叔父の方から会いたいと連絡が入ったとき、母も長兄も警戒心で迷っていました。兄には子供の時にいじめられた記憶があり、母は母で、前年に親せきを訪ねたとき、あまり芳しい話を聞いていなかったのです。
しかし、散り散りになった兄弟で存命で連絡が付いたのは叔父だけ。過去に嫌な思い出があってもそれを乗り越える姉弟の情が勝ったのでしょう。いざ会ってみると、叔父もその後苦労したのでしょうかすっかり丸くなっており、終戦前後に別れてからの互いの苦労話が尽きないようでした。
叔父は父親の気質を受け継いでいたのか、若いころに旅芸人になり芸人仲間の女性と結婚していました。二枚目役者としてそれなりの人気はあったそうです。しかし年を経ていつまでも不安定な旅役者でもなかろうと、当時贔屓にしてくれていたやくざの親分の紹介で、再会したころには製鉄工場の工員として働くようになっていました。
母がよく自分の生い立ちのことやパラオ時代のことを話すのに比べ、まだ幼児だった次兄はともかく、すでに物心がついていた長兄はパラオ時代のこと、戦後の苦労話など一切しませんでした。触れたくない澱として心の底に淀んでいたのだろうと思います。その長兄は若いころの苦労が祟ったのか、母に先立つこと3年、2001年に66歳の誕生日を迎えて数日後に病没しました。同じ年の4か月前に長兄が嫌っていた叔父が脳卒中で亡くなっているのは、偶然とはいえ因縁めいたものを思わずにいられません。あの世では和解し仲良くしてくれていると祈るのみです。
それから3年、母も波乱に満ちた生涯を2度の脳梗塞の末(戸籍上)90歳で終えたのでした。母の遺骨は婚家の宗派であるお寺に納骨しましたが、少しばかり残した遺灰は母が青春を過ごし、結婚し、一番幸せだったであろうパラオに、そして夫が眠るペリリュー島に少しでも近いところに、と南紀串本の海に散骨をしてきました。
さらに14年を経た昨年、新聞記事になったことから縁あって、母の持ち帰ったパラオ時代の写真を、戦前のパラオの庶民生活を知る貴重な資料として、パラオの国立博物館に寄贈しませんか、と勧めてくださる方がありました。話が進むなか、今度は写真に写っていたパラオ人の親族探しをしてくださった、母の故郷のNPO法人の方のお誘いでコロールを訪れることになり、年明けの今年正月に、件の写真を直接博物館側に手渡し、かの地で母たちの暮らしがあった場所探し、縁のあった人の親族との面会を目的とする旅がはじまった次第。
生前、昔の話をするたび懐かしがり、テレビ等でパラオが取り上げられ、ペリリュー島での玉砕が特集されるたび、画面を食い入るように眺めていた母は、戦時中の半強制的な引揚げ以来、第二の故郷ともいうべきパラオへの再訪を望んでいましたが、初めは経済的困窮から、年老いてからは体力の衰えと飛行機は嫌だとの理由から、とうとう叶いませんでした。
本来なら唯一存命の三男である次兄が生まれ故郷に行くべきなのですが、何分蓄えのない年金暮らしのうえ最近体調が思わしくないので、今回は一連のきっかけを作ってくれた私にすべて任せるというのです。兄の分まで旅費を負担できればよかったのですが、自分の葬儀費用にと残している蓄えから、一人分をねん出するのが精いっぱいの身では、かっこいい真似はできませんでした。
領土拡大を目論んだ挙句、多くの犠牲者を出し、それまでの領土すら失い敗戦した先の大戦。それさえなければ母や兄たちは南国の地で豊かに暮らしていただろうし、私が生まれてくることはなかった。そんな私が家族を代表するような形でかの地を訪れる。何とも言えない気持ちを抱えての旅になりました。
命からがら内地にたどり着いた母たちは、夫との約束に従い故郷の佐賀を目指したのですが、戻った実家の、彼女の仕送りで建てた家(と母は言っていました)に、母たちの居場所は無かったのです。父親はすでに再婚しており子だくさん。一番下の、母にとって腹違いの末弟は自分の長男とは6歳違い。十分事情の分からない末弟にとって姉とその子供たちは、食糧難の時代に突然転がり込んできた厄介者に映ったのでしょう。長男はその時6歳上の叔父に酷くいじめられたことを生涯忘れず、数十年ののち再会した時も心からの和解はできませんでした。
そんな子供たちの事情を見ておれず、母は子供たちを連れて夫の実家を頼ることにしました。結婚後もほとんどパラオで過ごしていた母たちにとって、夫の故郷滋賀県は見知らぬ土地、よそ者でしたが姑は温かく迎えてくれたようです。
しかし、その姑も終戦後すぐに亡くなり、消息の分からなかった夫は招集されたその年のうちに、パラオの激戦地ペリリュー島で玉砕していたことが分かります。遺骨どころか髪の毛1本も戻らず、ただ戦死公報で2階級特進が知らされただけでした。
母たちの苦境はそれだけでは終わりませんでした。
未亡人となった母に縁談が寄せられましたが、当時家督を継いでいた夫の兄が反対し、再婚するなら子供たちを置いていけと言われたそうです。再婚先で子供がいじめられることもあるかもしれないとの思いから、それに従い再婚を断ったところ、京都に所帯を持っていた義兄が、母のもとに来るたび子供たちの面倒は見るからと関係を迫ってきたそうです。そしてとうとう抗しきれず・・・その結果生まれたのが私ということです。
産むかどうか迷った挙句、生まれてくる子供に罪はないと周囲から諭され産む決心をしたと、そう聞かされたのはまだ私が幼児の頃でした。物心つくかつかないかの頃からそんな事情を隠さず聞かされていたおかげで、判断が付く年頃になってもショックらしいものはありませんでした。物心の付いた幼児期、父が1か月に一度しか家に来ないのを心待ちし、来たときは喜びはしゃぎまわっていたそうです。ただ、泊っていって欲しいといくらせがんでも聞き入れてもらえなかったのは不満でしたが、そんな時母や兄がどんな思いでいたか、心中を推し量れる歳になってから当時を思うと複雑なものがあります。
世間では子供の出自に問題があると考えるとき、その子に隠し通すか成人するまで話さない、ということもあるようです。しかし、自身の経験から言えば何かのきっかけで隠されていた事実を知ったときのショックが大きいだろうし、隠されたことで自分の存在が悪いことのように思うかもしれません。出自をたどりたいと思った時には関係者が亡くなっていたりして手遅れ、ということもあるでしょう。
子どもの人生はその子のものであり、どう対処するか本人に任せればいい。そのためにも隠さず幼少期のうちに何でもないことのようにあけっぴろげに話してあげてほしいと思います。愛情をもって育てていれば幼少期に真相を告げても何も問題は起きないと私は思います。
母は私がいずれ自分の出自を恨んで反抗し、非行に走るかもしれないと危惧したこともあったようですが、むしろ私が生まれるに至った事情で傷ついたはずの兄たちが、普通に兄弟として接してくれたことで、わたしは自分を否定すことなく成長できたのです。
判断が付くようになってから思ったことは、わが父親はずいぶんひどい男だったんだなあと。しかし父親も高齢になってからの末子ということか私には甘かった。そんなことから父母を恨むようなことはありませんでした。何よりそういう事実がなければ今の自分は存在していないし、結局自身の存在をを肯定するほかないわけですよね。
しかし、母や兄たちにとっては事情が違ったはず。母は我が子を守るため関係を持たざるを得なかったし、兄たち、とくに反抗期を迎えつつあった長兄にとって、自分たちの立場の弱さに付け込んだ伯父は、許し難い存在だったと想像に難くありません。相応の反発があったのかどうか、私が生まれてほどなく、中学1年で中退させられ、長男として一家を支えるという名目で(私の)父親の知り合いの京都の店に、住み込みの職人見習いとして出されました。
私たちが京都に引っ越し再び長兄と一緒に住み始めたのは、それから4、5年過ぎてからだったと思います。兄たちは事情を知ったうえで私を弟として隔てなく接してくれたし、私もそれを当たり前として成長しましたが、長兄の心中では葛藤があり続けたのでしょう。長兄が結婚して所帯を持ち子供が生まれたころから、次第に母との溝が深まっていったようです。少年期のつらい体験や生真面目な性格が影響していたのかもしれません。
ここで父についても少しふれておきたいと思います。
父は小作農の長男として1896年に滋賀県で生まれ、子供のころに京都室町の呉服商に丁稚奉公に出ています。27歳で結婚し暖簾分けで独立し店を構えます。子供もでき商売は順調で一時は羽振りもよかったそうです。そのころ祇園の芸者さんとのあいだにも一女をもうけています。この異母姉と私は父の葬儀の時に1度会ったきりです。
しかし羽振りの良かったのが却って仇になったのか、手を広げようとした矢先、得意先の倒産に会い連鎖倒産してしまいます。その後どういう経緯か聞いていませんが大手生保会社に就職し、商売をしていたころの顔の広さを武器に企業年金などの獲得で成績を上げ、売り上げ上位の常連だった時期もあったようです。70歳を過ぎても嘱託で仕事をしていましたが、さすがにその頃は小遣い稼ぎ程度の収入だったようです。
父は1986年、90歳で亡くなりますがその数年前から痴ほうが徐々に始まっていました。この父の5歳年下の弟が母の夫となった人です。
(最初にお断り) 掲載の写真は個人的なものなので転載、コピー保存など無断でのご使用は固くお断りします。
(最初にお断り) 掲載の写真は新聞記事にも使われたものですが、個人的なものなので転載、コピー保存など無断でのご使用は固くお断りします。
年初に短期間ながらパラオを訪問してきました。自らのルーツにかかわる旅でもあったので、いずれ文章にまとめるつもりでいるのですが、極めてプライベートな内容を含むそれをブログに上げるのが良いのか悪いのか、迷いつつ文章力のなさを言い訳にずるずると引き延ばしていました。
しかしもともと記憶力が悪いうえ、先延ばしにするほどに旅行の記憶があいまいになってしまうので、これではだめだと思い記憶の残っているうちにとりあえず文字にしておき、後日改めてちゃんとした文章に書きなおすことにしようと考えなおしました。
母の半生については、私の若いころから何度も話を聞いていたのですが、「今どきの若い者」の例に漏れず、親の人生に何ほどの関心も示せず、ただ聞き流していていたせいで、今では記憶も朧気で曖昧、思い違いなども多々あってどこまでが聞きかじりによる事実で、どこからが思い違いによる創作なのか判然としません。
しかしそんな記憶の糸を手繰り寄せることになったのは、私自身が70歳を目前にして終活を考え始めるにあたり、母が亡くなって14年、徐々に処分してきた遺品の中でも、手が付けられなかった写真をどう処分するか、特に戦前の写真に写る異国の風景や人々のことが気になりだしたことから。
母が戦時中のパラオから命がけで持ち帰った写真、そこに写っている人たちの家族にこの写真を手渡せないものか、地元の新聞社に相談を持ち掛けたところ、思いがけず記事にしていただき、そこから人の縁が生まれ、思いもしなかったパラオへの訪問が実現したのでした。
パラオは日本からはほぼ真南に約3000km、北緯7度、東経134度付近にある太平洋上の大小約200ほどの島からなる小さな島国で、全部の島を合わせても屋久島ほどの面積にしかなりません。
本島と呼ばれるバベルダオブ島が一番大きく、首都マルキョクや国際空港もこの島にあり、国土の7、8割程度を占めています。その南側に隣接するコロール島がパラオの中心で、全人口2万人ほどの約8割以上がこの島に住んでいます。2006年10月までこの島に首都がありました。
現在はダイビングや観光資源で成り立っている国ですが、75年前までは日本の統治下にありカツオ漁やリン鉱石の採掘も盛んだったようです。南洋と呼ばれるこの一帯を統治する南洋庁がコロール島に置かれ、コロールがパラオの中心となる礎になったのでしょう。
パラオが国際的に知られるようになったのは、16世紀の大航海時代にスペインによりミクロネシアの一部として発見されたことから始まり、19世紀末にドイツに売却されるまでスペイン領でした。1914年に第一次世界大戦が起きると、日本は連合国側についてドイツに宣戦布告し、終戦後に信託統治権を手に入れ実質的に植民地としました。
スペインやドイツ領の時代にはリン鉱石の採掘を細々とやるぐらいで本国からあまり重要視されず、白人によるほかの植民地同様、原住民であるパラオ人も人間扱いされることがほとんどない状態だったようです。しかし日本の統治が始まると現地人のための学校を作ったり、病院や道路といったインフラ整備に力を入れ、それまで漁業のほか生産手段を持たなかった現地人に農業を教えるなど、自立支援を行いました。
これは人道的支援という側面のほかに、同化政策による高レベルでの労働力確保という目的があったのでしょう。その証拠として現地人の教育は小学校までで、特に優秀な子供だけは内地(日本本国)の中学校に留学させるものの、あとは入植者の手伝いや勤労奉仕につかせ、成人の仕事も日本人の補助的なものに限っていたようです。
それでもそれまでの白人支配の時代に比べ、より人間扱いし自立自活の道筋をつけたことで、戦後70余年が過ぎた今でも親日感情はとても高いとのことです。
日本による統治が安定した1920年ごろになると、現地人を上回る2万5000人以上の日本からの移民・入植者があり、コロールの中心街は日本の商店が軒を連ねる繁華街になっていったといいます。