運不運と努力すること
明け方の激しい雨音で目が覚めてしまったので、giants-55さんの昨日の記事
(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/7a24440a4a63faace0591068c121cf43)
を思い出しながら、布団の中でちょっとした思考遊びをしてみた。
気のせいか、ここ数年で競馬、競輪、競艇、宝くじなどギャンブル関連のテレビCMがやたら目につくようになってきた。
ひょっとして、大阪府などが必死になって進めようとしているカジノ法案の影響もあるのかもしれない。
さて、競馬、競輪、競艇などは選手がらみの賭博行為なので、八百長が全くないとは言い切れない可能性もあるので、ここは全く運任せの宝くじに限って、努力が運不運を左右するのか考えてみた。
と、その前にたいていの人が経験しているだろう身近な事柄から。
地域の夏祭りや商店街、大型スーパーでのくじ引きで、こんな経験をされたことはないだろうか。自分の前後でくじを引いた人が1等や2等を引き当てたのに対し、自分は外れ・・・、なんて自分は運が無いんだろうと。
かくいう私は何度もその経験がある。そういう運やツキに縁がない事は自覚しているので、パチンコはじめギャンブルの類に興味を持って何度か試してはみても、幸い深入りすることはなかった。
で宝くじ。
全国宝くじで1等賞金1億円以上のものは、年間どれぐらい発売されているのだろうか。ジャンボと名のつくものだけでも数回は行われているのだから、1年で10人以上の億万長者が誕生しているのは確かだろう。
仮に国民の10人に1人、ざっくりと1300万人が宝くじを買っているとしよう。
買わなければ当たるはずもないので、11700万人は1億円を獲得する努力をしなかったということで、当選確率は0/11700万ということになる。
一方、買うことで1億円獲得の努力をした1300万人の当選確率は10/1300万だから、毎年130万人に1人は億万長者になれるはず。
つまり、130万年間毎年、1等賞金1億円の宝くじを買い続ける努力をすれば、必ずいつかは億万長者になれますよ、というわけだ(笑)。
しかし悲しいかな人間の寿命はそう長くない。だからいくら努力しても運不運がついて回る。
理想的に作られたサイコロを無限回振ると、1から6までの出目は全く同数になる、という確率論もあるらしい。しかし600回振ってどの目も同じ100回ずつということは、おそらく限りなくゼロに近い確率だろう。
人間の寿命は無限ではないし、その中で運不運を試される機会もおそらく無限ではない。誰もが有限で偏った確率の中で生きているはず。
ところで、幸運はみんな同じ数だけあるが、大きなチャンスに運を使うか、小さな出来事に運を使うかだけのこと、と言う人もいた。ジャンボ宝くじで1等5億円を当てる幸運も、自治会の夏祭りのガラポンで1等商品5kgのお米が当たる幸運も、幸運1回カウント、というわけだ。
確かにどちらも1等賞だが、こうして比べてみるとお米5kgがなんか虚しい気がするのは、やはりこれが幸運とは言い切れないからだろう。1/50や1/100の当選確率ではね。
むしろそんな些細なことで幸運を使い果たしてしまう不運というべきか(苦笑)。
食物連鎖の頂点にいるライオンやクジラは、自ら望んで努力してその「種」に生まれたのだろうか。
ヌーやイワシは「種」の選択の努力を怠ったから、餌食になる危険を持って生まれてきたのだろうか。
数億の精子の中からたった1つだけが卵子と結合して生まれたのだから、誕生自体が幸運なことだと建前論で言われても、誕生と同時に誰かの餌となってしまうことと、多くの子孫を残し老衰死することが同じ幸運とは思えない。
人間誰も産まれたときは裸というし、本気で努力すれば夢は必ずかなうともいうが、たとえば努力すれば誰もが100mを9秒台で走れるというわけではない。努力すれば誰もが美男美女で秀才で社会的に成功できる・・・わけでもない。
努力すれば夢がかなうとは、「成功した」少数者だけが振り返ってみて言えることだろう。
あ~、何だか空しくなってきた。
ゲン直しにサマージャンボでも買ってくるか・・・え? もうとっくに発売が終わってる? 運がなかったな・・・いや、ちゃんと調べてなかった努力不足か。