主権者たれ
テレビドラマで「すれ違い」シーンが繰り返されるものがある。戦後に放送され、女湯が空になったとの伝説が残る「君の名は」など、その最たるものだろう。
根がイラチということもあるのだろうが、こういうドラマを見るとイライラして、よほど面白くない限り以後そのドラマを見ることはない。
もちろん現実にすれ違いが起こらないわけではないが、何度も繰り返されると、あざとい作為を感じ(作品なのだから作為は当たり前だが(苦笑))、白けてしまうのだ。
閑話休題。
共謀罪審議や森友学園、加計学園の疑惑をめぐる、安倍政権の言動を見ていると、野党の質問・追及を何とかかわそうと、わざと論点をすり替えた答弁を繰り返し、「すれ違いを」演出しているように映る。
「批判を真摯に受け止め、誠実・丁寧に説明を尽くしたい」などと首相なこと・・・もとい、殊勝なことを言いながらも、現実にはその機会を求められても応じず、他方、問題点をすり替えた発言を繰り返す。また、そんなあざとい手法に毎回乗せられ支持率が大して下がらないのだから、国民の方もどうかしている。
鶏は三歩歩めばそれまでのことを忘れている、というジョークがあるそうだが、国民は鶏と同じレベルか? 少なくとも時の権力者はそう考えている節がある。
「すれ違い」も「すり替え」も無い方が良いに決まっているが、この人たちの頭の中はいったいどういう構造になっているのだろう。国民の安心安全、公平公正の実現に向かっているのだろうか、それとも、自らの地位と名声と権力の維持に向かっているのだろうか。
とかく世間は強いリーダーを求めたがるようだが、裏を返せば独裁者を求めているのと同じだ。 また、清廉潔白だが無能なリーダーより、多少悪いことをしても有能なリーダーの方が良い、という考えも世間にはある。清濁併せ呑む度量の大きなリーダーが理想像なのだが、果たしてそうだろうかと最近になって思うことがある。
有能で強いリーダーについていくことは、自らは無責任でいられる心地よさがある。たとえは悪いかもしれないが、親に庇護された子供、狼から守ってくれる羊飼いの下にのんびり安心して草を食む羊たち。
しかし、その親がとんでもない親だったら、子供は命さえ失いかねないし、羊たちは狼からは守られても、いずれ肉となり人間の胃袋に収まる。
逆説めくが、我々にはむしろ正直だが頼りないリーダーの方が良いのではないだろうか。頼りないリーダーだから、選択を誤らせぬようみんなでしっかり責任を持って監視することで、主権者責任の確立した社会が形成される。誰も他人任せの逃げは許されない。
即断即決を迫られる事態が起きた時にどうする? やはり有能で強いリーダーシップが必要ではないか? そんな疑念は当然ある。
しかし、世間や世界を見回してみればわかるが、本当にそうした事態が生じたときは、たいていは誰がどう即断してもすでに手遅れなのだ。有能なはずのリーダーは責任を取らず、責任を押し付けられているのはいつも末端にいる者たちのほう。だから「トカゲのしっぽ切り」などという言葉が生まれてくる。
むしろ、即断即決、一発大逆転といった事態に至らせないよう、日頃から危機管理ができてこそ有能なリーダーのはず。
小悪党の籠池理事長や文科省職員を「トカゲのしっぽ」にして終わりでいいわけがない。
心ならずも成立してしまったいわゆる「共謀罪法案」を有効活用するためにも、警察・検察にはまず真っ先に総力を挙げて、森友学園と加計学園の疑惑に首相官邸、内閣官房、文科省、近畿財務局、大阪府らの共謀がなかったか、徹底的に捜査していただきたいものだ。