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2019年4月22日 (月)

今日の太陽 2019/4/22

薄雲の晴れからゆっくりと快晴へ。
若干白っぽいと思ったけれど、もう15時前、撮っといたほうがよさそう。
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11時(12時?)方向のプロミネンスは今日もしっかり出ています。
3時、5時方向にも薄いけれど目立つものがあり収穫です。
今日も白色光は期待薄で望遠鏡は出しません。

そして遠くて近い国パラオへ 7

 1月8日。
 パラオに着いてからここまで、ほとんどの時間を私に付き合ってくださっていたTさんやM君にも、こちらでするべき事は当然あり、この日の午前中は先方とアポをとったり打合わせの電話に取り掛かっておられます。それとなく聞いていると、日本とパラオでは時間や約束といった概念が少しずれているようです。日本では約束や時間は優先して守るべき基本ですが、どうもこちらでは時間がゆっくり流れている様子。約束も書面ではっきりと書いておかない限り、日常生活の時間の流れの中で次第に優先順位が失われていくようです。どちらが良い悪いではなく、書面で交わした約束以外はおおらかに捉えておくのがこちらの流儀なのでしょう。

 昼近くになって昼食の調達にYANO惣菜店に行くことになりました。私だけその手前で降してもらい、昨日ウエキ氏から聞いた高橋商店のあったあたりの写真を撮ることに。
 目印となるギフトショップ「ルー」は、実はこちらに着いた当日に一度訪れていた店でした。日本を発つ数日前にメールを頂いていたパラオ諸島戦史研究会のYさんから、パラオで生活している二人の日本人女性を紹介され、戦前の日本人の生活に関心がある人たちなので、向うに行ったらぜひ会ってみてくださいと勧められていたのです。その一人が「ルー」で仕事をしているTさんでした。店を訪れた際母の記事が載った新聞のコピーや写真を見せ、髙橋商店の売り物の一つにかき氷があったように、この店でもかき氷をやっていたので、それを注文して食べたのです。75年以上の時を隔てて同じ場所でのかき氷。これも何かの縁でしょうか。
 もう一人の女性とも昨日お会いしていて、その方は日本地雷処理を支援する会(JMAS)に勤務するOさん。彼女からは当時の日本人社会を知る年代の方として、ウエキ氏とともにマサオ・キクチ氏のことも教えてもらいました。残念ながら滞在中の時間の制約もありお会いするに至りませんでしたが。Oさんは前日まで日本にいて今日パラオに戻ってきたところだったそうで、このタイミングも何かしらの縁を感じたものです。
 Yさんから話を聞いたときは中高年の女性だろうと想像していたのですが、お二人とも20代から30代と思しきとてもチャーミングな方たちでした。

 幹線道路沿いにある店の外観を何枚か撮り、YANOでTさんたちと合流。前回とは違う惣菜を買い込んでホテルに戻りました。タピオカの団子のようなものは少し甘めでしたが、惣菜はどれもおいしく口に合わないものはありません。レストランでの食事も含め、地元食材や地元での味付けに違和感はありませんでした。
 この日は午後からアラカベサン島にある日本大使館を訪問することになっています。食事を終えて少し休憩の後、タクシーを呼んでもらい大使館へ。タクシーは初日からずっと同じ運転手にお願いしていて、小柄で気さくなそのおじさんはTさんをママさん、私をパパさんと呼びます。家族と思っていたのでしょうか。
 
 大使館では専門調査官という肩書のYさんが応対され、ここでも写真のことなどを話しました。大使館などは旅行中に事故など被害が生じたときに駆け込むところ、そんな認識しかないので表敬訪問という体験は新鮮でした。日本大使館はパラオで一番格上とされるホテルの敷地に隣接し、大使館を出るとそのままホテルの敷地内を散策できます。
 パラオパシフィックリゾートホテルには日本人のスタッフが常駐していることもあり、日本人観光客が安心して過ごせると人気があるそうです。また、パラオのホテルで唯一ホテル内の水道が飲料として使えます。ここ以外では水道水を飲むことはできず、ペットボトルの飲料水が提供されます。敷地内に砂浜のビーチがあるのにびっくり。自然のものか人工的に作られたものか知りませんが、すごく贅沢感が漂うホテルでした。宝くじでもあたって豪遊できるなら、次のパラオ旅行は家族とともにこのホテルに1年ほど泊まり、島巡りをし魚釣りをし一番暗い場所で星を観望を・・・。

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大使館玄関前にて
右から大使館員のYさん Tさんと友人のYさん、左端がM君

2019年4月21日 (日)

今日の太陽 2019/4/21

今日は朝から薄雲がかかる晴れでした。
城陽市議会議員選挙の投票に出かけてきました。
20人の定員に対し24人の立候補。
私の知り合いが3人、嫁さんの実家の遠い親戚が1人。この4人のだれに投票するかお楽しみ(笑)。
もちろん政治的に考えの近い人をすでに決めていますが、出来れば4人とも当選してほしい気持ちも。
薄雲が一向に無くなりません。
大黒様もなくなったし、プロミネンスも最近はしょぼいし、無理してまで撮ろうという気にならないまま時間だけが過ぎていきます。
しかし、15時を過ぎたころにやや日差しが強くなった気がして、蜘蛛の巣電線の隙間からHα望遠鏡だけ出すことに。
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11時方向に大きなプロミネンスが出ていました!
1/125秒と、いつもより遅いシャッター速度ですが、なんとかGETする事が出来めでたしめでたし。

そして遠くて近い国パラオへ 6

 この旅行記は旅行中に手帳に書いていたメモを元に記憶をたどり照合しながら書いているのですが、昨日アップした記事と撮っていた写真を念のため確認してみて、日にちに錯誤があったことが分かりました。
 手帳にはウエキ氏と会う予定が8日の午後になっていたのですが、写真に自動的に記録される日時と画像番号では、会ったのは同じ日の散歩の後ということになります。実際には翌日会う予定でいたのが、直接ウエキ氏とアポが取れたので当日に急に変更になったというのが事実です。
 昨日アップの記事を一部訂正し、改めてアップし直しています。わずか3か月前のことも既に記憶があやふやになっている。困ったものです。

 ホテルに戻りシャワーを浴びて汗を洗い流し終わると、Tさんからウエキ氏とアポイントが取れたから今から行きましょうと言われました。彼は日本語が堪能だからM君の通訳もいらないということで、Tさんと2人で取り急ぎ出かけることに。
 オフィスに到着するとすでにウエキ氏が待っておられました。今年の誕生日で88歳になるというウエキ氏に、母が戦前パラオに住み、結婚して家庭を持ったこと、戦時中の引揚げの際に持ち帰っていた当時の写真を、この度パラオの国立博物館に寄贈したことなど、かいつまんで話しながら昔の地図のコピーやデジタルスキャンしてプリントしておいた写真を見せると、髙橋商店が写っている写真のところで指が止まり、この店を知っているとのこと。
 当時少年だった彼は、母たちが営んでいたこの店でジャムを塗ったパンを買って食べたというのです。日本人の裕福な家庭の子は毎日のようにここでパンを買っていたが、自分やパラオ人の子どもはそういつも買えるわけではなかったとのこと。そんな話をしてくれた時のウエキ氏は、確かに当時を懐かしむ少年の表情でした。店のあった場所はわかるでしょうかと尋ねると、現在の繁華街の一角にある「ルー」という店のあたりだというのです。
 今と違って当時の中心街は間口の狭い商店などが隙間なく立ち並んでいました。そんな写真を私もパラオに来る前のリサーチで何枚か見ていましたが、そこに髙橋商店は残念ながら写っていませんでした。しかし当時を知る彼がそう話してくれたので、これ以上確かなことはありません。この話を聞いた時には思わず鳥肌が立ちました。
 母から話を聞き、写真もある。しかし当時の母たちを知るパラオの人たちはすでに亡くなっており、その子供や縁者がいるだけ。住んでいたという家も残っていない中、どこか誰かの物語を傍観しているような手ごたえのなさをずっと感じていたのですが、ウエキ氏の口から出た日常の何気ない風景を聞いたことで、やっとこれが自分につながる現実だと思えた瞬間でした。パラオに来て本当に良かったと思えた瞬間でもありました。

 高揚した気分でホテルに戻るともう夕暮れ時。この日の夕食はパラオに拠点を置く旅行会社(今回の旅行もこの会社で手配)の社長で、Tさんが親しくされているSさんのお誘いで、彼の経営する日本料理のレストラン鳥鳥(とりとり)でとることに。Sさん自ら運転する車で直行した店は繁華街の中にありすでに満席状態でしたが、予約席が確保されており、こちらが注文した以外の料理まで次々出てきます。私たち4人とも食事代が心配になってきましたが、いざ会計になった時、ここはすべて社長のSさん持ちとのこと。パラオでしか食べられない食材を使った料理をおなか一杯ご馳走になってしまいました。
 食事中にSさんに伺ったところによると、散歩のときに見た日本建築の屋敷は駐パラオ日本大使の公邸とのでした。納得。アルコールも入っていたので、Sさんは運転されずそのまま店に残り、私たちはお店の従業員さんにホテルまで送ってもらうことに。
 こうして、パラオ滞在2日目は私にとって充実の1日となりました。
 
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復刻版の戦前のコロール市街図を見るウエキ氏
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後ろの壁には大使時代と思われる写真や、昨年受けられた褒章状が額に入って飾られています
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RUR(ルー)ギフトショップ
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ルーに連なる商店街 この辺りの一角に母たちの店、髙橋商店があった

2019年4月20日 (土)

今日の太陽 2019/4/20

快晴。
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すでに大黒様は西端のかなたに消え、ちびっこ黒点も群ではなくなっている様子。
あの大黒様も衰えが見えていたので、2週間後にみたびお目にかかることはなさそう。
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大黒様のあたりは活発な活動が見てとれます。
プロミネンスは4時、5時、11時方向が活発の様子。

そして遠くて近い国パラオへ 5

 この時はウエキ氏と会えないままホテルに戻ることになったのですが、戻る途中、戦前母たちが暮らしていた家の近くを通るので、海の見えそうなところで車を止めてもらうことにしました。出来れば岸壁のようなところではなく、砂浜のような海面に触れられる海岸がいいのですが、コロール島はサンゴの隆起でできた島なので、砂浜がほとんど無いようです。
 戦前のコロール市街地図(復刻版)とグーグルマップをプリントしたものを見比べると、細い道などが異なっています。戦争で一度荒れたあと、区画整理などが行われたのかもしれません。両地図を見比べるとアイランド・パラダイスリゾートクラブ(IRRC)というホテルが、昔の地図にある家とは少し離れているようですが、海に出るには一番よさそう。
 ホテルの敷地内なのでM君に通訳をお願いし、「戦前に家族がこの近くに住んでいたので懐かしく、少し散策させてほしい」と告げると、責任者らしい中国系の人物が快く応じてくれました。海岸近くまで寄ると砂浜ではありませんが水際まで下りられるようになっていました。同行の3人には待ってもらい水際まで下りて、カバンから小さな封筒を取り出します。中身は14年前の夏、和歌山・串本の海に散骨した時、遺灰を包んでいたガーゼです。普段は仏壇の中に収めていたもので、日本を出るときまだ少し繊維の隙間に灰が残っているのを確かめていました。
 ガーゼをそっと海水に浸し、手を合わせ黙とう。それから水の中の砂粒を少しつまみ取って、ガーゼとともに封筒に収めました。ここへ来られなかった兄に頼まれていたのです。
 待ってもらっていた3人のところに戻り、礼を言おうとした瞬間、急に胸が詰まり涙があふれてきました。急いでハンカチで目と口を押えましたが、嗚咽が止まりません。突然のこの事態に成す術もなくしばらく立ち尽くしてしまいました。病院で母が息を引き取ったときも、葬儀の時も串本で散骨した時も涙ひとつ出ることなく冷静でいられたから、自分は冷たい人間なのかなと思ったぐらいでした。それなのにこんなことになるとは我ながら心底驚いてしまいました。
 ようやく落ち着いたところでTさんたちに、待ってもらったお礼とパニックになったことを詫び、心配そうに遠くで眺めていたホテルの人にも礼を言って、宿泊先のホテルに戻りましたが、戻る車中でも、何かしゃべろうとするとすぐまた涙があふれそうになります。まだまだ気持ちが高ぶっているようでした。
 ホテルの部屋に戻りしばらく休憩しましたが、夕食まで十分に時間があり、母たちが住んでいた家のあたりを探してみたいという思いが高まっていたので、1時間ぐらいで戻りますと告げて一人で散歩に出かけることに。実際地図で見ると先ほど散骨したIRRCまで歩いて往復40分もあれば十分そう。
 南国の午後の強い日差しのもと、旧地図とグーグルマップを見比べながら歩くと、IRRCの手前から家のあたりに続くはずの小道がありません。しかし、少し離れたところに別の小道があったのでそこをずんずん進んでいくと、IRRCの裏手に当たる海岸に出ました。そこには別のこじんまりしたホテルらしい建物がありますが人がいる気配がありません。海岸と反対の崖の方を見ると、木立の隙間から家が見えました。
 もう一度旧地図を見ると、どうも崖の上のその家のあたりが本命のようです。小道を戻り崖の上に通じる道を探しますが、住宅の敷地内を通る道のほか見当たりません。グーグルマップを見返し、マラカル島からアラカベサン島の方に行く分かれ道まで戻り、そこからアラカベサン島側に行く道から分かれてぐるりとアルファベットのCのように円弧を描く道があるので、その道を行くと崖の上の家にいけそう。
 すでに体は汗でベトベトになっていますが、何としても確認しておきたい気持ちが強く、円弧の道をたどっていくと、突然日本風の屋敷のような建物が目に飛び込んできました。見ると日の丸の国旗が掲げられ壁には金色の菊の紋がはめ込まれています。何? でもこれは戦前に建てられた家ではありません。
 道をさらに進むと、先ほど崖下から見えていた家が見つかりました。Cの字を三分の二ほど進んだところです。今は現地の人の家が点在していますが、旧地図では確かにこの辺りが家があった場所に違いありません。やっと見つけたという小さな達成感で足取りも軽く・・・でもなかったけれど、気持ちよく帰り道を急ぐことに。
 
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ホテル敷地内の海岸 左側から海岸に降りられました
ここで最後の散骨
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ようやく気分が落ち着いたところで記念に1枚
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大使公邸
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75年前には、おそらくこの辺りに母たちの家があったはず

2019年4月19日 (金)

今日の太陽 2019/4/19

曇り時々薄曇り。
薄雲が広がっているので、とにかく白色光だけでも。
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今日がこの位置なら明日は無理かも。
左上のちびっこ黒点は幾分黒さを増しているような・・・。
Hα光は到底無理なので観望もしません。

そして遠くて近い国パラオへ 4

 滞在1日目の夕食場所に選んだカープレストランは、旅行パンフやネットでもよく知られたパラオの名物レストランです。いわゆる大衆食堂の部類ですが、値段が手ごろなうえ量が他所の店の1.5倍はありそうなボリューム。そしてこの店のオーナーの奥さんが何よりの名物とのこと。年配のご夫婦とも日本人ですが、ご主人は野球の読売ジャイアンツのファンなのに対し、奥さんの方は広島カープのファン。奥さんの主張が通って店の名前をカープにしたそうです。この奥さんがまた気さくでよく喋る。
 このカープレストランのオーナー岸川さんのお父さんが母と同じ佐賀県の出身で、戦前のパラオに出稼ぎに来ており、終戦時のアメリカによる日本人強制退去の際、孤児になっていた知り合いの日系パラオ人の少年を連れて故郷の伊万里に引き上げたそうです。この時の少年については少し詳しく後述します。
 夕食から満腹で戻り、前日ほとんど寝ていないこともあってすぐに就寝・・・ところが2時間ほどで目が覚めてしまい、これ以上寝られそうになくて外を見ると星空! 早速カメラと三脚をもって、ホテルの近くの岸壁に出かけました。この時をはじめコロールに滞在中に撮影した星の写真については、1月のブログでアップしています。

 1月7日。最初の公式訪問先はパラオ国立博物館。
 地元紙・京都新聞に大きく紙面を割いて記事にしていただき、Web紙面でも取り上げてもらったことが、台湾在住のパラオ民俗学研究者の目に留まり、その友人の京都大学事務職員U氏を通じて、これまで見たことのない写真なのでぜひ国立博物館に寄贈されてはどうか、とのお話をいただきました。正直なところその扱いに迷い、いずれは破棄することになるかもしれないと思っていた写真だけに、パラオの博物館で展示保存していただけるなら、それが一番いいかもしれないと兄とも相談。
 最初は郵送するつもりでいたのですが、急遽パラオ旅行がまとまったので直接手渡すことになりました。当初博物館の方では小規模ながら贈呈式を予定し、地元新聞社も来るよう手配するとのことでしたが、そういう事に不慣れで堅苦しいことは苦手なので、出来るだけ簡素に願いたいと伝えていました。
 受付で来訪を告げると、気さくなおじさんという印象のサイモン・アデルバイ氏が応対。ロビー横の喫茶室で寄贈する写真のそれぞれについて確認することに。事前にリストにしてU氏経由で渡してあるので補足的な話をし、屋外に出て記念撮影。そのあと館内の展示物を案内してもらい再び喫茶室に戻ると、今度は少し年配の男性が待っていました。
 アデルバイ氏から副館長のスコット・ヤノ氏と紹介され、再び写真についてのいきさつなどを話しながら歓談。今度も屋外に出て記念撮影も。ヤノ氏が日系なのかどうか名前だけではわかりませんが、日本の姓を名乗るのは日系人だけでなく、日本の植民地時代に、世話になったり親しくしていた日本人の姓を付ける純粋のパラオ人もいたとか。今ではアメリカ的な姓や名前を付けている人も多いようで、これも時代の流れでしょう。もうひとつ。前日昼食を買い求めた惣菜店YANOはヤノ氏の弟が経営しているとのことでした。
 昼を過ぎたころになり、そろそろお邪魔しようとしていたら、副館長の指示で特大のハンバーガーが出され、遠慮なくごちそうになってから退出。
 昼を過ぎ、ドクター・ミノル・ウエキ氏に会いにマラカル島に移動。しかし、事前にアポを取っていなかったのか生憎不在。出直すことになります。
 ミノル・ウエキ氏について私は全く情報を持っていませんでしたが、Tさんの話では前述のカープレストランオーナーのお父さんが、終戦後に連れて帰った日系パラオ人の少年だということです。彼は日本に引き揚げた後、中学校に通い日本の教育を受けます。数年後、帰国が叶いパラオに戻り、さらにアメリカにわたって医学を学び、ふたたびパラオに戻り国立病院で医者として勤務、のちに政治家となり日本へはパラオ大使として3年間赴任経験もある、努力家の秀才という人物。日本との国際交流で貢献大ということで昨年秋の叙勲で旭日重光章を受けられたとのことです。
 そんな人物と一介の民間人に過ぎない私が気安く会えるのかと不審に思いましたが、彼なら少年時代に戦前の日本人社会を知っているので、何か手掛かりの話が聞けるかもしれないと、Tさんの提案で進めていただいていました。これもTさんの顔の広さです。

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パラオ国立博物館 向うに見えるのは天体ドーム?
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喫茶・食堂で写真の確認中 右から2人目が私 真ん中がアデルバイ氏
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博物館の壁に描かれた壁画の前で 左がヤノ氏、右はTさん
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博物館の敷地にあるアバイ
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母の持ち帰った写真にあるアバイ これは戦争で焼失していました。
アバイはパラオの伝統的建築物で集会所として各地にあったようですが、戦争で多数失われ戦後再建されたものも。

2019年4月18日 (木)

今日の太陽 2019/4/18

快晴。時々薄雲が広がっています。
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大き目の黒点は今日も健在。
あと2日で西端からバイバイかな。
左上の方に小さな黒点が2つ見えます。
新たな黒点群の発生。
事前にかひちやうさんの部屋を見ていたので見落とし無し(苦笑)。
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3時方向と11時方向にプロミネンス。
11時方向はまずまずのサイズです。

そして遠くて近い国パラオへ 3

 1月6日は日曜日。公式訪問の相手先はいずれも休みなので、朝食までしばし仮眠を取り、食後にはこれからどう行動するかTさんたちと打ち合わせ。TさんとYさんは2週間強の滞在のうち、農業支援のため現地の各方面と会合や打ち合わせの予定が詰まっているのですが、私が滞在する1週間弱の間はこちらの予定を優先していただけるとのこと。M君の方はホームスティと研修が1週間先から始まるので、彼も私に付き合って通訳を引き受けてくれることになりました。
 打ち合わせが済んで昼近くになったので、Tさんの案内でコロールの中心街を見学に行くことに。空港のある本島バベルダオブ島からコロール島を貫いて、隣接するアラカベサン島とマラカル島に至る幹線道路沿いのコロール島の真ん中あたりにホテルやスーパーマーケット、土産物店が並び、警察署、郵便局、銀行などの公共施設もあります。
 しかし、パラオ唯一の繁華街とツアーのパンフレットなどには紹介されているものの、感じたままを正直に言えば、日本の地方都市の駅前商店街といった印象。幹線道路が広く、間口の広いお店が間隔を広くとって並んでいるのと、全体に建物が古い印象があって全体としてそう感じたのかもしれません。
 車は間断なく通るのですが信号機は見かけません。横断歩道もなく歩く人もまばら。パラオ人の人口が少ないのと、観光客の目的はほとんどが海なので、ダイビングから戻ってくる夕方からが活気づいてくるのでしょうか。
 一番大きなスーパーマーケットのWCTCに入りぐるりと一回り。棚に並んでいるフルーツや野菜など一部の地元食材以外はほとんどが輸入品。特に目立つのがアメリカの商品で、次に多いのが日本の商品。東南アジアからのものも目につきました。観光資源以外これといった産業がなく、アメリカと日本の経済援助に頼っているのが現状らしく、物価は日本とほとんど変わらないようです。
 かつて日本が入植し先住民に農業を指導したというのも今は昔。敗戦で日本人が引き上げアメリカが信託統治するようになると、経済支援はするが自立のための支援はしない政策をとります。日本の教育を受け農業をしていた人たちも、時とともに老い彼らの子どもの代になると多くは自生しているイモ類を主食に、いつでも手に入るフルール類を食べ、自分達が食べる分だけ漁で魚をとるといった、元の生活スタイルに戻ってしまったようです。あくせく働かなくても食うに困らないし、経済支援を受けているからそこそこのレベルの生活ができるというわけです。
 酋長と呼ばれる昔からの名家の一門、いわゆるエリートでインテリ層である人たちは国の将来を考え、外国資本を呼び込んで提携し観光産業に力を入れ、あるいは自立のため農業振興、養鶏などに取り組んでいて、NPOのTさんの支援活動もそうした流れの中にあるそうです。しかしパラオ人の国民性と、かつての日本のような半強制的な手法は現在では通用しないので、なかなか難しいことのようです。
 もうひとつ、農業支援がはかどらない原因が土地問題にあるとのこと。戦前に日本人によって開墾された土地は土地台帳で管理されていましたが、戦争によって失われ、その後の混乱もあって、土地の所有者が誰なのか今もって争われている場所が多くあり、うかつに支援に入れないのだとか。

 またしても話が逸れてしまいました。
 WCTCを見学後もいくつかの食料品店を見てまわったのですが、その1軒で思わぬ出会いがありました。前年の10月に預けた写真をもって人探しをしてくださったTさんですが、その時見つけてくださっていた3組の家族のうち、パラオ美人花子さんの孫夫婦が買い物に来店していたのにTさんが気づき、その場でご対面。この時は軽いあいさつ程度で済ませたのですが、2日後、もう一度会うことになります。
 さて、歩き疲れてきたのでそろそろ昼食をということでWCTCまで戻り、隣のYANO惣菜店で食料調達。手軽に安価に済ませるときに便利な店と、ネットの観光案内でも紹介されている店です。値段と量を見て納得。せっかくだから現地食を食べたいと言ってタピオカや鶏肉の総菜を買って、ホテルに戻り遅めの昼食にありつきました。
 昼食後はホテルの周囲を散歩したり部屋で休憩したり。
 昼食を安上がりで済ませたので、夕食はTさんのなじみのレストランですることになり、タクシーでマラカル島にあるカープレストランへ。このレストランは旅行前にネットで調べていて私が一度は行きたいと思っていた店でした。ちなみにパラオでは鉄道や公共交通機関はないので、少し距離のある移動はレンタカーを利用するか、事前交渉で運賃を決めるタクシーを利用することになります。
 カープレストランについては次回に。

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コロール郵便局
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空港のあるバベルダオブ島方面
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この先数キロのところで右にカーブすると、日本大使館もあるアラカベサン島、左折するとカープレストランがあるマラカル島
右端の3人が今回同行いただいた方たち

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