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2019年4月20日 (土)

今日の太陽 2019/4/20

快晴。
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すでに大黒様は西端のかなたに消え、ちびっこ黒点も群ではなくなっている様子。
あの大黒様も衰えが見えていたので、2週間後にみたびお目にかかることはなさそう。
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大黒様のあたりは活発な活動が見てとれます。
プロミネンスは4時、5時、11時方向が活発の様子。

そして遠くて近い国パラオへ 5

 この日はウエキ氏と会えないままホテルに戻ることになったのですが、戻る途中、戦前母たちが暮らしていた家の近くを通るので、海の見えそうなところで車を止めてもらうことにしました。出来れば岸壁のようなところではなく、砂浜のような海面に触れられる海岸がいいのですが、コロール島はサンゴの隆起でできた島なので、砂浜がほとんど無いようです。
 戦前のコロール市街地図(復刻版)とグーグルマップをプリントしたものを見比べると、細い道などが異なっています。戦争で一度荒れたあと、区画整理などが行われたのかもしれません。両地図を見比べるとアイランド・パラダイスリゾートクラブ(IRRC)というホテルが、昔の地図にある家とは少し離れているようですが、海に出るには一番よさそう。
 ホテルの敷地内なのでM君に通訳をお願いし、「戦前に家族がこの近くに住んでいたので懐かしく、少し散策させてほしい」と告げると、責任者らしい中国系の人物が快く応じてくれました。海岸近くまで寄ると砂浜ではありませんが水際まで下りられるようになっていました。同行の3人には待ってもらい水際まで下りて、カバンから小さな封筒を取り出します。中身は14年前の夏、和歌山・串本の海に散骨した時、遺灰を包んでいたガーゼです。普段は仏壇の中に収めていたもので、日本を出るときまだ少し繊維の隙間に灰が残っているのを確かめていました。
 ガーゼをそっと海水に浸し、手を合わせ黙とう。それから水の中の砂粒を少しつまみ取って、ガーゼとともに封筒に収めました。ここへ来られなかった兄に頼まれていたのです。
 待ってもらっていた3人のところに戻り、礼を言おうとした瞬間、急に胸が詰まり涙があふれてきました。急いでハンカチで目と口を押えましたが、嗚咽が止まりません。突然のこの事態に成す術もなくしばらく立ち尽くしてしまいました。病院で母が息を引き取ったときも、葬儀の時も串本で散骨した時も涙ひとつ出ることなく冷静でいられたから、自分は冷たい人間なのかなと思ったぐらいでした。それなのにこんなことになるとは我ながら心底驚いてしまいました。
 ようやく落ち着いたところでTさんたちに、待ってもらったお礼とパニックになったことを詫び、心配そうに遠くで眺めていたホテルの人にも礼を言って、宿泊先のホテルに戻りましたが、戻る車中でも、何かしゃべろうとするとすぐまた涙があふれそうになります。まだまだ気持ちが高ぶっているようでした。
 ホテルの部屋に戻りしばらく休憩しましたが、夕食まで十分に時間があり、母たちが住んでいた家のあたりを探してみたいという思いが高まっていたので、1時間ぐらいで戻りますと告げて一人で散歩に出かけることに。実際地図で見ると先ほど散骨したIRRCまで歩いて往復40分もあれば十分そう。
 南国の午後の強い日差しのもと、旧地図とグーグルマップを見比べながら歩くと、IRRCの手前から家のあたりに続くはずの小道がありません。しかし、少し離れたところに別の小道があったのでそこをずんずん進んでいくと、IRRCの裏手に当たる海岸に出ました。そこには別のこじんまりしたホテルらしい建物がありますが人がいる気配がありません。海岸と反対の崖の方を見ると、木立の隙間から家が見えました。
 もう一度旧地図を見ると、どうも崖の上のその家のあたりが本命のようです。小道を戻り崖の上に通じる道を探しますが、住宅の敷地内を通る道のほか見当たりません。グーグルマップを見返し、マラカル島からアラカベサン島の方に行く分かれ道まで戻り、そこからアラカベサン島側に行く道から分かれてぐるりとアルファベットのCのように円弧を描く道があるので、その道を行くと崖の上の家にいけそう。
 すでに体は汗でベトベトになっていますが、何としても確認しておきたい気持ちが強く、円弧の道をたどっていくと、突然日本風の屋敷のような建物が目に飛び込んできました。見ると日の丸の国旗が掲げられ壁には金色の菊の紋がはめ込まれています。何? でもこれは戦前に建てられた家ではありません。
 道をさらに進むと、先ほど崖下から見えていた家が見つかりました。Cの字を三分の二ほど進んだところです。今は現地の人の家が点在していますが、旧地図では確かにこの辺りが家があった場所に違いありません。やっと見つけたという小さな達成感で足取りも軽く・・・でもなかったけれど、気持ちよく帰り道を急ぐことに。
 シャワーを浴びて汗を洗い流し終わるともう夕刻。この日の夕食はパラオに拠点を置く旅行会社(今回の旅行もこの会社で手配)の社長で、Tさんが親しくされているSさんの経営する日本料理のレストラン鳥鳥(とりとり)でとることに。Sさん自ら運転する車で直行した店は繁華街の中にありすでに満席状態でしたが、予約席が確保されており、こちらが注文した以外の料理まで次々出てきます。私たち4人とも食事代が心配になってきましたが、いざ会計になった時、ここはすべて社長のSさん持ちとのこと。パラオでしか食べられない食材を使った料理をおなか一杯ご馳走になってしまいました。
 食事中にSさんに伺ったところによると、散歩のときに見た日本建築の屋敷は駐パラオ日本大使の公邸とのでした。納得。アルコールも入っていたので、Sさんは運転されずそのまま店に残り、私たちはお店の従業員さんにホテルまで送ってもらうことに。
 こうして、パラオ滞在2日目は私にとって充実の1日となりました。
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ホテル敷地内の海岸 左側から海岸に降りられました
ここで最後の散骨
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ようやく気分が落ち着いたところで記念に1枚
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大使公邸
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75年前には、おそらくこの辺りに母たちの家があったはず

2019年4月19日 (金)

今日の太陽 2019/4/19

曇り時々薄曇り。
薄雲が広がっているので、とにかく白色光だけでも。
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今日がこの位置なら明日は無理かも。
左上のちびっこ黒点は幾分黒さを増しているような・・・。
Hα光は到底無理なので観望もしません。

そして遠くて近い国パラオへ 4

 滞在1日目の夕食場所に選んだカープレストランは、旅行パンフやネットでもよく知られたパラオの名物レストランです。いわゆる大衆食堂の部類ですが、値段が手ごろなうえ量が他所の店の1.5倍はありそうなボリューム。そしてこの店のオーナーの奥さんが何よりの名物とのこと。年配のご夫婦とも日本人ですが、ご主人は野球の読売ジャイアンツのファンなのに対し、奥さんの方は広島カープのファン。奥さんの主張が通って店の名前をカープにしたそうです。この奥さんがまた気さくでよく喋る。
 このカープレストランのオーナー岸川さんのお父さんが母と同じ佐賀県の出身で、戦前のパラオに出稼ぎに来ており、終戦時のアメリカによる日本人強制退去の際、孤児になっていた知り合いの日系パラオ人の少年を連れて故郷の伊万里に引き上げたそうです。この時の少年については少し詳しく後述します。
 夕食から満腹で戻り、前日ほとんど寝ていないこともあってすぐに就寝・・・ところが2時間ほどで目が覚めてしまい、これ以上寝られそうになくて外を見ると星空! 早速カメラと三脚をもって、ホテルの近くの岸壁に出かけました。この時をはじめコロールに滞在中に撮影した星の写真については、1月のブログでアップしています。

 1月7日。最初の公式訪問先はパラオ国立博物館。
 地元紙・京都新聞に大きく紙面を割いて記事にしていただき、Web紙面でも取り上げてもらったことが、台湾在住のパラオ民俗学研究者の目に留まり、その友人の京都大学事務職員U氏を通じて、これまで見たことのない写真なのでぜひ国立博物館に寄贈されてはどうか、とのお話をいただきました。正直なところその扱いに迷い、いずれは破棄することになるかもしれないと思っていた写真だけに、パラオの博物館で展示保存していただけるなら、それが一番いいかもしれないと兄とも相談。
 最初は郵送するつもりでいたのですが、急遽パラオ旅行がまとまったので直接手渡すことになりました。当初博物館の方では小規模ながら贈呈式を予定し、地元新聞社も来るよう手配するとのことでしたが、そういう事に不慣れで堅苦しいことは苦手なので、出来るだけ簡素に願いたいと伝えていました。
 受付で来訪を告げると、気さくなおじさんという印象のサイモン・アデルバイ氏が応対。ロビー横の喫茶室で寄贈する写真のそれぞれについて確認することに。事前にリストにしてU氏経由で渡してあるので補足的な話をし、屋外に出て記念撮影。そのあと館内の展示物を案内してもらい再び喫茶室に戻ると、今度は少し年配の男性が待っていました。
 アデルバイ氏から副館長のスコット・ヤノ氏と紹介され、再び写真についてのいきさつなどを話しながら歓談。今度も屋外に出て記念撮影も。ヤノ氏が日系なのかどうか名前だけではわかりませんが、日本の姓を名乗るのは日系人だけでなく、日本の植民地時代に、世話になったり親しくしていた日本人の姓を付ける純粋のパラオ人もいたとか。今ではアメリカ的な姓や名前を付けている人も多いようで、これも時代の流れでしょう。もうひとつ。前日昼食を買い求めた惣菜店YANOはヤノ氏の弟が経営しているとのことでした。
 昼を過ぎたころになり、そろそろお邪魔しようとしていたら、副館長の指示で特大のハンバーガーが出され、遠慮なくごちそうになってから退出。
 昼を過ぎ、ドクター・ミノル・ウエキ氏に会いにマラカル島に移動。しかし、事前にアポを取っていなかったのか生憎不在。出直すことになります。
 ミノル・ウエキ氏について私は全く情報を持っていませんでしたが、Tさんの話では前述のカープレストランオーナーのお父さんが、終戦後に連れて帰った日系パラオ人の少年だということです。彼は日本に引き揚げた後、中学校に通い日本の教育を受けます。数年後、帰国が叶いパラオに戻り、さらにアメリカにわたって医学を学び、ふたたびパラオに戻り国立病院で医者として勤務、のちに政治家となり日本へはパラオ大使として3年間赴任経験もある、努力家の秀才という人物。日本との国際交流で貢献大ということで昨年秋の叙勲で旭日重光章を受けられたとのことです。
 そんな人物と一介の民間人に過ぎない私が気安く会えるのかと不審に思いましたが、彼なら少年時代に戦前の日本人社会を知っているので、何か手掛かりの話が聞けるかもしれないと、Tさんの提案で進めていただいていました。これもTさんの顔の広さです。

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パラオ国立博物館 向うに見えるのは天体ドーム?
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喫茶・食堂で写真の確認中 右から2人目が私 真ん中がアデルバイ氏
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博物館の壁に描かれた壁画の前で 左がヤノ氏、右はTさん
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博物館の敷地にあるアバイ
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母の持ち帰った写真にあるアバイ これは戦争で焼失していました。
アバイはパラオの伝統的建築物で集会所として各地にあったようですが、戦争で多数失われ戦後再建されたものも。

2019年4月18日 (木)

今日の太陽 2019/4/18

快晴。時々薄雲が広がっています。
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大き目の黒点は今日も健在。
あと2日で西端からバイバイかな。
左上の方に小さな黒点が2つ見えます。
新たな黒点群の発生。
事前にかひちやうさんの部屋を見ていたので見落とし無し(苦笑)。
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3時方向と11時方向にプロミネンス。
11時方向はまずまずのサイズです。

そして遠くて近い国パラオへ 3

 1月6日は日曜日。公式訪問の相手先はいずれも休みなので、朝食までしばし仮眠を取り、食後にはこれからどう行動するかTさんたちと打ち合わせ。TさんとYさんは2週間強の滞在のうち、農業支援のため現地の各方面と会合や打ち合わせの予定が詰まっているのですが、私が滞在する1週間弱の間はこちらの予定を優先していただけるとのこと。M君の方はホームスティと研修が1週間先から始まるので、彼も私に付き合って通訳を引き受けてくれることになりました。
 打ち合わせが済んで昼近くになったので、Tさんの案内でコロールの中心街を見学に行くことに。空港のある本島バベルダオブ島からコロール島を貫いて、隣接するアラカベサン島とマラカル島に至る幹線道路沿いのコロール島の真ん中あたりにホテルやスーパーマーケット、土産物店が並び、警察署、郵便局、銀行などの公共施設もあります。
 しかし、パラオ唯一の繁華街とツアーのパンフレットなどには紹介されているものの、感じたままを正直に言えば、日本の地方都市の駅前商店街といった印象。幹線道路が広く、間口の広いお店が間隔を広くとって並んでいるのと、全体に建物が古い印象があって全体としてそう感じたのかもしれません。
 車は間断なく通るのですが信号機は見かけません。横断歩道もなく歩く人もまばら。パラオ人の人口が少ないのと、観光客の目的はほとんどが海なので、ダイビングから戻ってくる夕方からが活気づいてくるのでしょうか。
 一番大きなスーパーマーケットのWCTCに入りぐるりと一回り。棚に並んでいるフルーツや野菜など一部の地元食材以外はほとんどが輸入品。特に目立つのがアメリカの商品で、次に多いのが日本の商品。東南アジアからのものも目につきました。観光資源以外これといった産業がなく、アメリカと日本の経済援助に頼っているのが現状らしく、物価は日本とほとんど変わらないようです。
 かつて日本が入植し先住民に農業を指導したというのも今は昔。敗戦で日本人が引き上げアメリカが信託統治するようになると、経済支援はするが自立のための支援はしない政策をとります。日本の教育を受け農業をしていた人たちも、時とともに老い彼らの子どもの代になると多くは自生しているイモ類を主食に、いつでも手に入るフルール類を食べ、自分達が食べる分だけ漁で魚をとるといった、元の生活スタイルに戻ってしまったようです。あくせく働かなくても食うに困らないし、経済支援を受けているからそこそこのレベルの生活ができるというわけです。
 酋長と呼ばれる昔からの名家の一門、いわゆるエリートでインテリ層である人たちは国の将来を考え、外国資本を呼び込んで提携し観光産業に力を入れ、あるいは自立のため農業振興、養鶏などに取り組んでいて、NPOのTさんの支援活動もそうした流れの中にあるそうです。しかしパラオ人の国民性と、かつての日本のような半強制的な手法は現在では通用しないので、なかなか難しいことのようです。
 もうひとつ、農業支援がはかどらない原因が土地問題にあるとのこと。戦前に日本人によって開墾された土地は土地台帳で管理されていましたが、戦争によって失われ、その後の混乱もあって、土地の所有者が誰なのか今もって争われている場所が多くあり、うかつに支援に入れないのだとか。

 またしても話が逸れてしまいました。
 WCTCを見学後もいくつかの食料品店を見てまわったのですが、その1軒で思わぬ出会いがありました。前年の10月に預けた写真をもって人探しをしてくださったTさんですが、その時見つけてくださっていた3組の家族のうち、パラオ美人花子さんの孫夫婦が買い物に来店していたのにTさんが気づき、その場でご対面。この時は軽いあいさつ程度で済ませたのですが、2日後、もう一度会うことになります。
 さて、歩き疲れてきたのでそろそろ昼食をということでWCTCまで戻り、隣のYANO惣菜店で食料調達。手軽に安価に済ませるときに便利な店と、ネットの観光案内でも紹介されている店です。値段と量を見て納得。せっかくだから現地食を食べたいと言ってタピオカや鶏肉の総菜を買って、ホテルに戻り遅めの昼食にありつきました。
 昼食後はホテルの周囲を散歩したり部屋で休憩したり。
 昼食を安上がりで済ませたので、夕食はTさんのなじみのレストランですることになり、タクシーでマラカル島にあるカープレストランへ。このレストランは旅行前にネットで調べていて私が一度は行きたいと思っていた店でした。ちなみにパラオでは鉄道や公共交通機関はないので、少し距離のある移動はレンタカーを利用するか、事前交渉で運賃を決めるタクシーを利用することになります。
 カープレストランについては次回に。

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コロール郵便局
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空港のあるバベルダオブ島方面
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この先数キロのところで右にカーブすると、日本大使館もあるアラカベサン島、左折するとカープレストランがあるマラカル島
右端の3人が今回同行いただいた方たち

2019年4月16日 (火)

今日の太陽 2019/4/16

時折薄雲があるぐらいでほぼ快晴。
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大黒点様は健在。でも心持ち小さくなったような気も・・・。
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プロミネンスは3時方向に目立ちますが、それ以外の周縁にも小さなものが出ています。

そして遠くて近い国パラオへ 2

 仁川発パラオ行きの出発時刻は22時過ぎ、到着は4時間半後になっています。事前に調べたところ、台北経由、グアム経由ともパラオ・コロール国際空港着は午前2時から4時台になっています。さらに、パラオ発もそれらの時間帯に集中しています。いずれも深夜早朝帯の発着なのは何か理由があるのでしょうか。
 搭乗開始は遅れもなく順調に進みましたが、関空-仁川間就航機に比べ一回り小型の機体です。飛行時間は倍以上長いけれど、乗客数が少ないのでローカル線扱いになるのは仕方ないですね。とはいえ機内はほぼ満席、やはり韓国人が一番多く、時折中国語が聞こえ、白人の姿もちらほら。
 同行のM君と隣り合わせの通路側の席に着きましたが、彼は仮眠を取りますからと窓側の席を譲ってくれました。私の方はといえば座ったまま寝ることができないほうなので、窓側でなければ時間つぶしにとナンプレ本を忍ばせていました。離陸とともに窓外に広がる韓国の夜景を眺めているのは私ぐらいか・・・お上りさん気分です。
 しばらくすると海に出たのでしょう、眼下は真っ暗です。でもすぐにまた九州の街明かりが見えてきました。それもしばらくの間だけでまた真っ暗になりました。ようやく太平洋に出たようです。照明を落とした機内の薄暗がりでナンプレを始めましたが、それにも疲れふと窓の外を見ると平行目線よりも高いところに見慣れた星の並びが見えます。プレアデス星団、和名すばるです。上空大気のフィルターが薄いうえ、光害もないので明るくはっきり見えています。ほかにも見えないか、小さな窓に顔をつけて周囲を見渡すと、アルデバランとヒアデスも。
 星探しに疲れてしばし目を閉じ、ナンプレを少しやり、また窓の外を見る、そんなことを繰り返していると、眼下に明かりが見えてきて、やがて機内アナウンスがあり、ついにパラオに着いたようです。
 コロール空港は国際空港とはいっても国の規模が小さく人口も少ないので、鹿児島の屋久島空港に近いローカル空港という印象です。機外に出ると南国の暑い外気のお出迎え。20歳のころ社員旅行で連れて行ってもらったタイのバンコクを思い出しました。あの時も2月の冬の日本を出発してのことで、機外に出るとムッとするような暑い空気に驚いたものです。
 冷房のあまり効いていないような空港内で、韓国人の団体さんが入国審査を受ける様子を見ながら、厚物の上着から薄手の物に着替えます。機内では気が付きませんでしたが、パラオ人乗客も何人かいたようで、外国人とは別の審査所を通ってさっさと出ていきます。それに引き換え団体さんの方はなかなかはかどりません。トランクもバッグもいちいち開けて念入りにチェックを受けています。
 最後尾に並んでいた私たちの順番になり、タバコと果物を持っていないかと尋ねられ、持っていないと告げながらキャリーケースをカウンターに置いてチャックを開けようとすると、必要ないと身振り手振りで示し行っていいというそぶり。え? ほんとにいいの? そんな表情で無事通過。団体さんのチェックに疲れ雑になっているのかと思ったら、Tさん曰く「中国人や韓国人は禁止されているものを持ち込むことが多いから、念入りに調べられるけれど、日本人は信用されているから」と。そんなところにも戦前からの日本とパラオの結びつきが受け継がれているのかなと、妙に納得しました。あるいは支援活動でたびたびパラオを訪れているTさんの顔パス効果なのかも。
 ようやく空港の外に出ると、予約したホテルから迎えのマイクロバスが待っていました。運転手は旅行社の現地スタッフで、私たちがなかなか出てこないので、乗り遅れたかキャンセルかと心配していたそうです。バベルダオブ島南部にある空港から滞在先コロール島のホテルまで、街灯の少ない舗装の悪い道を40分ほど走って到着。
 ランドマークマリーナホテルではM君と同部屋で、荷物を置くとすぐに私は外に出てみることに。サンゴの島で入り組んだ湾に建つ小さなホテルですが、目の前の岸壁から浮桟橋に降りるとたくさんの小型船が係留されています。スキューバダイビング客に人気のホテルだとか。桟橋からのぞき込むと街灯に照らされた透明度の良い海中に魚が泳いでいるのが見えます。中でも40cmはありそうなサヨリが手の届きそうなところを悠々と泳いでいるのを見ると、釣り好きとしてはムズムズしてきます。
 桟橋を沖の方に移動すると、ホテルの陰に隠れていた異様に明るい星が見えてきました。明けの明星・金星です。日本で見る金星の何倍も明るく輝いています。この時期は月の見えない新月期ですが、満月の下では月明かりだけで新聞が読めた、と母が言っていたのを思い出します。
 とうとうパラオにやってきたと、その時ようやく実感しました。
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ランドマークマリーナホテル。
規模は大きくないが岸壁のすぐそばで、海に出るには便利。
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ホテルからの風景。
日本、パラオ、米国の旗が立っているのは、国際サンゴ礁センター。
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ホテルからの風景。サンゴ礁センターの隣の水族館。

2019年4月15日 (月)

今日の太陽 2019/4/15

雲が多く風の強く吹く晴れ。
午後になってようやく撮影にこぎつけましたが、太陽の縁がゆらゆら陽炎のように揺れて定まりません。
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1枚だけで処理してみましたが、こんな感じなので多枚数をスタックしてもボケたような画像にしかなりません。
それでもやるしかない。
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これが精いっぱいです。
白色光を撮り終えたところで厚い雲に覆いつくされてしまったので、Hαはお休みです。
その後蜘蛛の巣電線越しに観望だけしましたが、プロミネンスは1か所だけの寂しいお天道さまでした。

そして遠くて近い国パラオへ 1

 外国語は全く苦手。英語も読み書きともダメなので一人で海外に行った経験がなく、そのうえ国内旅行でも個人で飛行機を利用したことがない。そうした旅行はすべてツアーか社員旅行での経験。こんな消極的な人間なので佐賀県の方からパラを行きを誘われ、合流は韓国の仁川空港で、と聞いた時には正直小さな子供が初めてのお使いに出されるときの気分。
 幸い航空券や現地での宿の手配は、何度も渡航の経験のあるその方のなじみの旅行社でしていただけることになり、自分ではパスポートの取得と旅行保険を掛けることぐらいで済みました。体力に自信がないので荷物はできるだけ少なくコンパクトを心がけ、機内持ち込みサイズのキャリーケースを購入。博物館に寄贈する写真、昔のコロールの地図と現在の衛星写真のプリントなど、旅の目的に必要な資料類。5泊6日になるので必要最小限の着替え類など。せっかく南の島に行くなら南十字星も見たい撮りたいということで、コンパクトなトラベル三脚を新たに購入。
 海外旅行の経験豊富な人から見れば笑ってしまうような些細なことまで、これは空港で機内持ち込みをとがめられないか、それはダメかもと迷ってはネット検索で調べ、持っていくものの取捨選択をしているうちに日が過ぎ、年が明けてしまいました。一方で戦前と現在のパラオについての情報も、抜かりなく本やネットで調べておきます。

 1月5日。空港での出国諸手続きに手間取って飛行機に乗り遅れるようなことがあっては大変と、フライト予定時刻より相当早めに関空に向けて家を出発。今回旅行に誘っていただいた佐賀県の方とは仁川空港で落ち合うことになっているので、そこまでは何としても自力で到着しなくてはならないと、ある種悲壮な覚悟でしたが、案ずるより産むがやすし。何事もなくスムーズに手続きを終え、飛行機の出発まで退屈な数時間を過ごすことになってしまいました。
 乗る予定の飛行機の到着が遅れ、出発も予定より20分ほど遅れましたが、仁川での乗り継ぎにも十分時間があるので焦ることなくフライトを楽しむことに。思えば社員旅行で沖縄に行って以来10年ぶりに飛行機への搭乗です。
 一昨年の夏ごろまでは日本パラオ間にも定期便があったそうですが現在はなく、韓国の航空会社を利用して仁川経由、台湾の航空会社を利用して台北経由、アメリカの航空会社を利用してグアム経由の3択になり、今回は全行程アシアナ航空を利用します。機内アナウンスは基本韓国語ですが、仁川までは日本航路なので日本語でのアナウンスもありこれも安心。でも座席周囲は韓国語が飛び交っています。
 2時間の飛行ののち無事に仁川空港に到着。長い通路をひたすらキャリーを引きながら乗り継ぎカウンターを目指します。幸い同じターミナル内の移動で済んだのですが、それにしても東アジアのハブ空港というだけあって広い。途中、乗り継ぎセキュリティチェックの関門も無事クリア。予定では福岡空港からの便はもう到着しているはず。待合わせの乗り継ぎカウンターに急ぎますが、まだそれらしい人物は見当たりません。
 しばらく椅子に掛けて待っていると、メールのやり取りから写真で見知ったTさんが到着。Tさんの友人のYさん、佐賀大学の学生M君もご一緒。Tさんは佐賀県庁で公務員をされた後、パラオやスリランカに支援活動をする国際交流NPOを立ち上げたという、行動力抜群の女性。Yさんは70代の女性ながら好奇心旺盛で中年過ぎて英語を習得されたとのこと。M君もTさんの知り合いで、今回パラオで3か月間研修する目的で、急遽ホームステイ先のオランダからいったん帰国しての同行とのこと。このM君が今回の旅で通訳を買って出てくれました。
 パラオ行きの搭乗手続きまで十分時間があるので、遅い夕食を取るとにし食事をしながらしばし歓談。とてもついさっき知り合ったばかりとは思えない気さくさで話が弾み、心の片隅に残っていた今回の旅への一抹の不安も消え去っていました。

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